文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚ーザ・バンド The Band

2025年02月04日 | わたしのレコード棚
 今年(2025年)の1月21日、ザ・バンド The Bandの最後の生存メンバー、ガース・ハドソンがニューヨーク州ウッドストックで死去した。87歳だった。ザ・バンドは、アメリカ南部出身のレヴォン・ヘルムを除く他のメンバーがカナダ人で、1967年から1976年まで主にアメリカで活動したロックバンド。 1976年 11月25日 、 サンフランシスコでの最後のコンサートを映画化した『ラストワルツ』が日本で公開されたころ、わたしは大学生だった。無駄がなく、洗練された音使いに感動したものだった。ライブ演奏にもかかわらず、あれだけの完成度の高い演奏が出来る各メンバーの演奏力にも感心した。ロックバンドとはいえ、ジャンルを超えた演奏力を持った人たちだったのだ。

 ひとつの時代の終焉、とも言えるのかもしれない。以前はLPレコードも持っていたが、今、手元にあるのは下のCDだけだ。追悼の意味を込めて、取り上げておきたい。


 1968年から1977年までにリリースされた18曲を収録したCD『The Band GREATEST HITS』。Capitolレーベルから2000年に発売されている。


 CD解説内の写真。左から、ピアノのリチャード・マニュエル(1943-1986)、ベースのリック・ダンコ(1942-1999)、オルガンのガース・ハドソン(1937-2025)、ギターのロビー・ロバートソン(1943-2023)、右端にドラムスのレヴォン・ヘルム(1940-2012)。オリジナル・メンバーの全員が様々な楽器を演奏でき、それぞれヴォーカルもとれる。なので、普通のバンドでは到底考えられないような、多彩な音作りが可能だった。


 こちらは、裏面。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース169-Lee Jackson

2025年01月14日 | わたしのレコード棚
 リー・ジャクソン(Lee Jackson)は、ウィキペディアによると、1921年8月18日アーカンソー州Lee Countyの生まれで、亡くなったのは1979年7月1日シカゴ。家族間の争いに巻き込めれ凶弾に倒れた、という。ただ、下のLP『シカゴブルースの25年』内の解説では、1907年セントルイス生まれ、となっている。1907年説を取ると、マディ・ウォータースなどより年上になってしまう。音楽的には、田舎臭さを感じさせない都市のものなので、やはりウィキペディアの1921年説を取っておこう。本名は、Warren George Harding Leeらしい。ギター・ヴォーカルの他に、作曲、ベースもこなした。
 日本ではあまり知られておらず、聴くことができる音源も限られている。が、バックを務めたものを含めると、残された録音は少なくないらしい。ウィキペディアが挙げている共演したミュージシャンを列記しておくと、 Johnny Shines, Willie Dixon, Jimmy Reed, J. B. Hutto, Sunnyland Slim, Lacy Gibson, Little Walter、など。

 第二次大戦後のシカゴで、かなり活動していた人のようだ。彼の残した録音の中で、1970年ドイツのフランクフルトでのライブを聴いた時「これこそがシカゴのギターリストの音なのではないか」と、なぜか感じた。南部から出てきた黒人たちが都市に移動して作り上げた音楽の中で、最も安定していた時期のブルース、そんな気がする。エレキギターの音も、自然でストレート、聞き心地が良く心に響く。シカゴブルースがロックに繋がる一歩前、素朴さを残した音楽。個人的に「こんな音がだせたらいいな」と、エレキギターのセッティングの際に指標にしているギタリストの一人だ。



P-ヴァインの3枚組LPレコード『シカゴブルースの25年』PLP-9022~9024。オムニバス・レコードで、この中に2曲ジャクソンのヴォーカル・ギターを収録。R&Bに近い音作りになっている。シカゴでの録音だろうが、録音データの記載は無く、メンバーや録音年などの詳細は不詳。声が若いようなので、1950年代の録音か。

LP内の解説に載っている写真。P- 90を搭載したレスポールを左で弾くように構えているが、下のLP内の写真では右で弾いている。あるいは、ネガを裏で、逆にプリントしたのかも。


 1970年11月16日、ドイツ(当時の西ドイツ)のフランクフルトで「American Folk Blues Festival」と銘打って行われたライブを収録した2枚組LPで、ドイツのL+R(Lippmann & Rau)というレーベルの42.021。名盤。



 ジャケットの内の写真。上段左から右に、Willie Dixon、Bukka Whiteが2枚、Sonny Terry、Brownie McGhee。下段左から右に、Shakey Horton(ハーモニカ)、Champion Jack Dupree、そしてLee Jackson(ギター)、Lafayette Leak(ピアノ)、Clifton James(ドラムス)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース168 Henry Gray

2024年12月24日 | わたしのレコード棚
 1998年8月15日、東京は有楽町の国際フォーラムホールB。来日した「Legends Of Chicago Blues All Stars」の一員としてピアノを担当したヘンリー・グレイ(Henry Gray)の演奏を、わたしは最前列で聞いていた。コアなブルース・ファンから「グレイの演奏はいいぞ」との声を聞いてはいたが、はっきり言って圧倒された。1925年1月19日ルイジアナ州ケナー(Kenner)の生まれなので、来日時73歳だったが、肩の力を抜いて鍵盤に触っているだけの様に見えたにもかかわらず、ピアノは目一杯鳴っていた。名人とはそういうものなのかもしれない。亡くなったのは、2020年2月17日同州バトンルージュ、95歳だった。晩年までルイジアナで演奏を続けていた、という。驚異的な、持続力だ。
 ちなみに、「Legends Of Chicago Blues All Stars」というのは、ハウリン・ウルフのバンドに所属したことのあるミュージシャンを集めて来日のために編成されたらしい。ギターとヴォーカルは主にヒューバート・サムリンだった。グレイの他に、リズムのドラムスとベースが印象に残った。明らかに、ロックとは違うリズムのアクセントで、これこそがブルースのリズムだ、と思った。少しネットで検索してみたが、残念ながらメンバーの詳しいことは分からなかった。



 STORYVILLEレーベルのCD『The Blues Of Cousin Joe & Henry Gray』STCD8053。やはりピアニストだったカズン・ジョーのブルースを、1984年8月にニューオリンズでグレイがピアノ・ヴォーカル単独で録音した18曲を収録。ニューオリンズのリズムのノリで、たっぷりとピアノとヴォーカルを聴ける。グレイは、かなり録音を残しているが、現在では入手が難しくなっている。残念だ。


こちらは、ネットから検索して拝借した写真。2010年の撮影という。わたしが聴いた時の印象よりも、ふくよかになった感じ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース167 Frank Floyd

2024年12月17日 | わたしのレコード棚
 フランク・フロイド(Frank Floyd)は、1908年10月11日にミシシッピー州Toccopola生まれの、白人ブルースマン。亡くなったのは、1984年8月7日オハイオ州Blanchesterだった。

 一般的な認識として、ブルースは、奴隷として連れてこられた黒人達がアフリカ起源の音楽を基にアメリカで生まれたたもの、ということだろう。が、ごく初期に録音されたブルースを聴くと、マウンテンミュージックと言われるようなアイルランド移民が持ち込んだ音楽にかなり近いものを感じる。わたし個人としては、アフリカ起源の音楽とアイルランド起源の音楽が相互に影響し合って生まれた、と認識している。その後枝分かれし、一方はブルースに、もう一方はジミー・ロジャースを代表とするヒルビリーと呼ばれるような音楽になりカントリーソングやフォークソングになってゆく。
 ブルース好きな人と話していると、時にカントリー音楽を揶揄する人もいる。が、個人的には認識の誤りを感じるし、歴史的な録音を聴いていないな、とも感じる。ルイジアナ出身の黒人ブルースマン、ヒューディー・レッドベターなどは、「Goodnight Irene」の様なマウンテンミュージックに近いレパートリーを持っていた人だったのだ。


 Memphis International RecordsというレーベルのCD『The Missing Link』DOT0201。この人は、別名「ハーモニカ・フランク Harmonica Frank」とも呼ばれ、ヴォーカル・ギターだけでなくハーモニカ演奏にも長けた人だった。

 今の感覚からいうと、ブルースよりも民衆の音楽という意味でのフォーク・ソングに近く、ウッディ・ガスリーを彷彿とさせる曲もある。多くは自作曲で、1979年5月頃のメンフィスでのライブやスタジオでの録音を編集して、17曲を収録している。バラッド( ballads)と呼ばれる物語性を持った曲もある。日本民謡の「口説き節(くどきぶし)」にあたるが、現代の音楽に比べて、とても言葉が豊かだなあ、と感じる。
 「ミッシング・リンク Missing Link」というのは聞きなれない言葉だ。少し調べてみたところ、連鎖しているはずの部分が欠如していること、らしく、遺伝学などで使われるらしい。あるいは、音楽の歴史を知る上で当然存在しているはずのものなのに、欠けているかのように知られずに来たミュージシャン、という思いが込められているのかもしれない。「ブルースは黒人のもの」という先入観なしに聴いてみたい録音である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース166 Robert Cray

2024年12月10日 | わたしのレコード棚
 ロバート・クレイ(Robert Cray)は、1953年8月1日ジョージア州コロンバスに生まれ、生後11ヶ月で軍人だった父親の転勤のため西部ワシントン州タコマへ移住したという。彼の音楽はブルース・ソウルという枠から出て、自由奔放さを感じるが、あるいは西海岸の都市で成長期を過ごしたことに遠因があるのかもしれない。1974年に自己のバンドを結成。アルバート・コリンズのバックなども務めている。今年2024年で71歳ということになるが、すでにブルースの殿堂入りを果たしており、現役の優れたギタリスト・ヴォーカリストである。ギタリストとしての評価が高いので、どうしてもギターのテクニックが注目されがちだが、彼のヴォーカルは音程が安定しており、ファルセットを効果的に使う技術は高く、表現力豊かだ。音楽的な才能に恵まれた人なので、これからも元気に活躍してもらいたい。


 わたしは、ロバート・クレイの演奏を2度聞いている。1度めは、1984年にジョン・リー・フッカー共に来日公演した時で、東京芝の郵便貯金会館だった。この時がクレイの初来日。ブルース界期待の若手だったクレイは31歳で、前座という触れ込みだった。が、下のチケットを見て分かるように、フッカーのバックを務めた「The Coast To Coast Bluesband」との共演、だった。当時、ネームヴァリューがあまりにも違うので、「大物ブルースマン」ジョン・リー・フッカーの陰に隠れたような扱い方をされたのかもしれいが、けっして若手の未熟な演奏ではなく、むしろすでに完成された音楽、に近かった。後に、クレイはフッカーのアルバム『The Healer』(1989年)及び『Mr. Lucky』(1991年)にも参加している。



 2度めは、1987年にエリック・クラプトンと共に来日し、日本武道館での公演だった。この時は、自分のバンドを率いての演奏だったが、ほぼ満員の武道館はほとんどがロックファンで埋め尽くされていたように感じた。先入観というのは恐ろしいもので、偉大なロックミュージシャンの前座くらいにしか思っていない者には、どんなに良い演奏をしても「良い前座」という捉え方しかされなかったようだ。もっとも、それが修行になって、後の演奏活動の肥やしになれば、それはそれで良いのかもしれない。



 2012年にビクターエンタテイメントから出たCDで、VICP75083『Nothing But Love』。タイトルが示すように、全体にソウルに近い洒落た音作りになっている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース165'Doctor' Isaiah Ross

2024年11月12日 | わたしのレコード棚
 ’ドクター’アイザイヤー・ロス('Doctor' Isaiah Ross)は、1925年10月21日ミシシッピー州Tunicaに生まれ、1993年5月28日にミシガン州Chevroletで亡くなっている。ネイティブ・アメリカンの血を引くともいわれている。

 下はP-ヴァインから出ていたLPレコードで、PLP352『Memphis Breakdown』。ヴォーカル・ハーモニカ・ギターで「Chicago Breake Down」など14曲を収録。1952から1954年にSUNレーベルに録音された若い頃の録音。’ドクター’ロスは、ギターを弾いて歌い、さらにハーモニカを吹いたりドラムを足で打ち鳴らし演奏できる「ワンマンバンド」プレーヤーでもあるが、このLPではドラムスやピアノなどのメンバーが入っている。この録音は、後のロックに影響を及ぼし、エリック・クラプトンなどもコピーしている。


ジャケット写真の様に、ロスは左利き。表題『Memphis Breakdown』のとおり、ヒル・カントリー・ブルースとも言われるメンフィスのビートが彼の音楽を特徴づけている。



LP盤内のSUNのロゴマーク。SUNレーベルは当時エルビス・プレスリーが在籍していたことでも知られている。



 こちらは、1993年1月10日にミシガン州フリント(Flint)公共図書館で行われたライブ演奏の貴重な映像を収録したビデオテープ。「The Last Concert」と表題されており、亡くなる4ヶ月ほど前の演奏になる。発売は「Back Alley Blues Productions」となっている。フリントは、同州の大都市デトロイトから100キロほど離れたところで、ロスは死後この地に埋葬された、と解説にある。おそらく、地元の文化を紹介するために図書館が企画した演奏会だろう。
 以下の3枚は、ビデオ映像をデジカメで撮ったもの。





 バスドラムやハイハットを踏み鳴らしながらのワンマンバンド演奏。図書館だけあって、後方に書架が見えている。ブルースの映像としては珍しく貴重。
 LPで聴ける若い頃の演奏に比べ、かなり繊細さを感じる演奏で、特にハ-モニカは郷愁さえ感じる音色だ。加齢による衰弱は否めないが、死ぬ4ヶ月ほど前にこれだけの演奏が出来ることに尊敬の念を禁じ得ない。ミュージシャンの端くれとしては、こうありたい、と感じる。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース164 J.B.Hutto

2024年10月22日 | わたしのレコード棚
 ジョセフ・ベンジャミン・ハットー(Joseph Benjamin Hutto)は、1926年4月29日サウス・キャロライナ州ブラックヴィル(Blackville)の生まれで、1983年6月12日にイリノイ州ハーヴェイ(Harvey)で亡くなっている。シカゴブルースの初期から活躍した、ヴォーカルとスライド奏法中心のエレキギターを奏でるブルースマン。以下は、ウィキペディアを参照して書いた。

 ハットーの父親カルヴィンは牧師で、彼が3歳の時にジョージア州オーガスタに家族とともに移り住み、そこで、兄弟とともに教会の聖歌隊で歌っていたという。1949年に父が亡くなった後は、家族でシカゴに移動している。1950年代初めの朝鮮戦争にはトラック運転手として参戦している。帰国後はシカゴに戻り、演奏活動を再開。
 彼は、楽器を演奏する才能に恵まれていたようで、ドラムスやピアノなども演奏したという。1954年には、レコーディングの機会が来て、チャンス・レコードから2枚のシングルを出している。しかし50年代終わり頃、あるクラブでの演奏中に客が夫婦喧嘩を起こし、ギターを壊された事件があり、演奏活動を続ける気が失せたという。その後は、葬儀関係の仕事で収入を得ていたらしい。
 演奏を再開したのは、1960年代中頃で、下のLPは1968年に録音されたものだ。


 デルマーク原盤LPでトリオのPA6205『Hawk Sqatt! J.B.Hutto & The Hawks』、1968年の12曲を収録。ピアノ・オルガンにサニーランド・スリム、ギターにはリー・ジャクソン、ベースには来日したこともあるエイシスのベーシストのデイブ・マイヤーズ他ジュニアー・ペティス、ハーマン・ハッセル、ドラムスにフランク・カークランド、テナーサックスにモーリス・マッキンタイヤー。当時のシカゴブルースを代表するかの様なメンバーで、特に、ベースとドラムスのリズム隊は、これがシカゴのビートだと実感させられる。ドラムスやベースのプレーヤでブルース演奏をしたい人には是非と聴いてほしい演奏。

 同、裏面。シカゴのブルース・シーンは、マディ・ウォータースが活躍した初期から、マジック・サムがブルース・ロックを形成するまで、様々なブルースマンが存在している。J.B.ハットーは、過渡期の橋渡しの様な人と感じる。
 スタイルが似たプレーヤーにハウンドドッグ・テイラーがいるが、1975年のテイラーの死後は「ハウス・ロッカーズ」の残ったメンバーを一時引き継いでボストンに移り、1983年の死までレコーディングなどしている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース163 Dan Pickett

2024年09月10日 | わたしのレコード棚
 ブルースという音楽を特徴づけているものに「コール・アンド・レスポンスCall and response」がある。これは、ブルースに限らず様々な民族音楽にあり、日本の民謡などでは「合いの手」に当たる。今では、聴衆とのやり取り、呼応などをライブで演奏に組み込むことも「コール・アンド・レスポンス」とも言うが、本来は農作業や力仕事などでリズムを取りながら呼応して作業を進めるためのものだろう。ブルースマンが一人で演奏する時には、歌い、それに呼応する様に、ギターなどの楽器で「合いの手」を入れるがごとくに演奏する。歌とギターの「掛け合い」のような形になる。そこには、様々な演奏パターンがあり、それがそのプレーヤーを特徴づけることになる。

 わたしもブルース・セッションに参加して様々なプレーヤーと演奏したが、このコール・アンド・レスポンスを大切にして演奏する人には、いまだに出会っていない。皆、それぞれに高い技術を持っているミュージシャンだが、自分なりの間合いを習得して「コール・アンド・レスポンス」を入れ、ブルースらしい演奏が出来ている人は皆無だ。わたしの友人は、SNSで公開されている、あるブルースセッションの映像を見て「(ブルースナンバーだが)ロックにしか聞こえない」と言っていた。それはセッションに参加している人が、ロック・ミュージシャンの演奏するブルース形式の曲しか聞いていないことに起因している。やはり、ルーツとなっているブルースマンの演奏を聴き込まなければ本当のブルースは出来ない。

 ダン・ピケットは、スライドギターを中心にしたブルースマンで、この人の演奏を聴くと「見事なコール・アンド・レスポンスだ」と感じる。特に、若い人にはぜひ聴いてほしいブルースマンの一人。

 この人に関しては、出自など長く不明とされており、下のCD解説では「"謎の“戦後カントリー・ブルース/スライド・ギターの名手」としている。が、今では彼の事がかなり判ってきているようで、ウィキペディアなどには、かなり詳しい記述がある。それによると、本名はジェイムス・フォウンティー(James Founty)。生まれは1907年8月31日アラバマ州のパイク(Pike County)。亡くなったのは1967年8月16日で、やはりアラバマ州のボアズ(Boaz)だった、という。


 P-ヴァインから1991年に出た、国内盤CDでPCD-2271。解説は、鈴木啓志氏。ゴーサム(GOTHAM)というレーベルに残した、1949年8月フィラデルフィアでの録音18曲。さらに、ターヒール・スリム(Tarheel Slim)の同年7月の4曲をカップリングして22曲を収録。後世に残すべき優れたCDなのだが、残念ながら今では入手が困難なようだ。ユーチューブなどで聴ける曲もあるので、若いプレーヤーには、ぜひ一度聴いて自分の演奏の参考にしてほしい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース162 Bumble Bee Slim

2024年09月03日 | わたしのレコード棚
 バンブル・ビー・スリム(Bumble Bee Slim)は、本名エイモス・イーストン(Amos Easton)。1905年5月7日ジョージア州ブラウンズウィックで生まれ、1968年4月にロスアンジェルスで亡くなっている。

 日本では、あまりポピュラーなミュージシャンではない。が、1930年代のシカゴではかなりの人気者で、1931~1937年の間に複数のレーベルに160曲以上の録音を残している。芸名の「Bumble Bee」は丸花(マルハナ)蜂という蜜蜂のことらしいが、メンフィス・ミニーのヒット曲に由来しているらしい。あるいは、性的な意味が背後にあるのかもしれない。


 最近入手したCDで、オーストリアのWOLFレーベルのB.o.B6。1934~1937年のシカゴ録音23曲を収録。ジャケットではギターを構えているが、このCD内ではあまりギターは弾かず、歌が中心。バックでギターを弾いているのは、ビッグ・ビル・ブルーンジーやタンパ・レッド、ロニー・ジョンソンなど。ピアノは、ブラック・ボブなどで、当時のシカゴを代表する優れたミュージシャンばかり。
 バンブル・ビー・スリムは、1928年頃にインディアナポリスでリロイ・カーと出会い、友人になったという。その影響か、このCDには『How Long How Long Blues』など、カーの曲が含まれており、かなり原曲に近い演奏をしており、聴きごたえがある。

 しかしその後は人気が落ちたのか、1930年の中頃には故郷のジョージアに帰り、同後半には西海岸へ移ったという。戦後も西海岸で芸人として活動を続け、録音も何曲かしたが、戦前の様な人気は出なかったようだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース161 John Cephas & Phil Wiggins

2024年08月27日 | わたしのレコード棚
 John Cephas & Phil Wiggins(ジョン・シーファス&フィル・ウィッギンズ)のコンビは、東部ピードモントの伝統的な音作りで、ブルースにとどまらないレパートリーを持つギターとハーモニカのコンビ。

 ヴォーカルとギターのシーファスは1930年ワシントンDCの生まれで、生業は大工さんというが、60歳ころからは音楽に専念したという。ヴァージニア州ボーリンググリーン(BowlingGreen)で育ったので、「BowlingGreen John」とも呼ばれる。2009年にヴァージニアで亡くなっている。
 ハーモニカのウィッギンズは1954年やはりワシントンDCの生まれで、今年(2024年)の5月7日、70歳の誕生日前日にメリーランド州タコマで亡くなっている。

 シーファスはウィッギンズより24歳年長ということになり、親子ほど年の離れた二人だが、息の合った演奏を聴かせてくれる。二人の出会いは、1976年、ピアニストのビッグ・チーフ・エリスを中心としたセッションだったという。エリスの死後、コンビを組んで活動を続け、2001年には来日もしている。





 ドイツのL+RレーベルのLP42031。1980年の秋にワシントンDCでの録音11曲。これが、本格的な初録音で、この後アメリカのレーベルからリリースを続けることになる。ウィッギンズのハーモニカはサニー・テリーの影響が強く、リズミカルに音を切ってゆく演奏は、シカゴのハーピスト達とは違った魅力がある。シーファスの落ち着いたヴォーカルと柔らかい音のギターと相まって、個性的なフォーク・ブルースとなっている。2001年の来日時、わたしは公私ともに多忙で、聴きに行けなかった。惜しいことをした、と今になって思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース160 Blind James Campbell & His Nashville Street Band

2024年08月20日 | わたしのレコード棚
 アーホーリー(ARHOOLIE)レーベルの、クリス・シュトゥラッハウィッツ(Chris Strachwitz)が、1962年から1963年にかけてテネシー州ナッシュビルでフィールド録音した音源からのLP。写真を見ると古く感じるが、さほど古い、というわけではない。街角などで演奏されていた、素朴でシンプルな「Colored Brass Band」の演奏を今に伝える貴重な音源。ある意味、素人っぽい、とも言えるが、そこが魅力で分かりやすい、とも言える。



 ARHOOLIEのLP1015。

 リーダーと思われるJames Campbellは、1906年ナッシュビル生まれで、1981年に亡くなっている。ギターとヴォーカルを担当し、Blindということで盲目のようだが、調べてみたら、化学肥料の工場の事故で目を傷めたらしい。ジャケット写真中央でギターを持っている人だろうが、何となく完全に失明しているようには見えない。
 12曲を収録。『John Henry』や『Baby Please Don't Go』などスタンダードなブルースをブラスバンド用にアレンジして、自分達なりの音を作っている。楽器編成・メンバーは、以下の通り。
Beayford Clayーフィドル・バンジョー
Bell Rayーセカンドギター・フィドル
George Bellートランペット
Ralph Robinsonーチューバ

 特に、チューバの低音が他の楽器とうまく絡み、独特な味わいを醸し出している。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース159Jim jackson

2024年08月06日 | わたしのレコード棚
 以前、ブルース・セッションで若い人と話していた時「俺は元々はアコースティックギターでやってたんだよ」と言うと、彼は驚いて「アコギでブルースやるんですかあ?」と言った。啞然として、次に発する言葉が出てこなかった。今思えば「エレキギターが出来るずっと前からブルースはあったんだよ・・」と言えば、納得してくれたような気もする。と、いうわけで、録音されたブルースの歴史の初期に活躍した、アコースティックなジム・ジャクソンを取り上げることにしよう。ちなみに、エレキギターが商品化されたのは1938年頃だが、その前年にジャクソンは亡くなっている。

 ジム・ジャクソン(Jim jackson)。生まれは、はっきりとしたことは不明だが、1890年頃としている資料が多く、下のLPレコードでは1884年頃としている。生地はミシシッピー州ハーナンド(Hernando)らしい。ショーをして薬などを売る「メディスン・ショー」や、エンターテインメント性の高い「ミンストレル」で芸人生活を送っていた人で、今風にいう「ブルースマン」というよりは「エンターテナー」に近い人だった。1927年10月にヴォキャリオンに吹き込んだ『Jim jackson's Kansas City Blues』がヒットし、1928年にはメンフィスへ移動、様々なプレーヤー達と演奏活動をしている。『Kansas City Blues』は、100枚のミリオンセラーだったという。が、それに見合った報酬は得られなかったのだろう、1930年に最後の録音をした後は故郷のハーナンドへ帰り1937年に亡くなった、という。ミリオンセラーを記録した人が、それに見合ったギャランティーを得られず、40代で亡くなる。これが、100年程前のアメリカの音楽業界の厳しい現実だったわけだ。


オランダのレーベルAGRAMのLPでAB2004。『Kansas City Blues』のパート1~4など、1927年から1929年までの16曲を収録。歌詞と解説付き。


同じレコードの裏面。中央が発売当時のVocalion(ヴォキャリオン)のSP盤のレーベルだろう。

 ブルースの歴史において注視すべき重要な点は、ジム・ジャクソンの「歌詞ー言葉」である。LPに付属している歌詞を見ると、後にシカゴで活躍したブルースマン達が、ここからフレーズを取ってきたと思われる言葉が多くあるのに気付く。「音」ではなく「言葉」が中心だった頃のブルースがここにあり、リズムはシャッフルではなく2ビートに近く、アイリッシュ系のマウンテン・ミュージックにも通じている。ここで聴かれる豊かな言葉、それら全てがジャクソンのものかは分からない。おそらく、当時のアメリカ南部の庶民達が歌っていた言葉を拾い、編集したのだろう。それはそれで、大きな仕事だったのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース158ハワード・アームストロング(Howard Armstrong)

2023年04月25日 | わたしのレコード棚
 ハワード・アームストロング(Howard Armstrong)は多才な人で、音楽に限らずイラストあるいは絵画にも優れていた。ミュ-ジャンとしては、ヴォーカルはもとより、ヴァイオリンやマンドリンなどこなせる楽器も多かった。さらに、言語能力にもたけ、7か国語でコミュニケート出来たといわれている。若い頃は、その多才さを発揮して、ジャグバンド風の編成でクラブなど酒場を回ることが主な活動になっていたようだ。それゆえか、ブルースマンとして語られることは少ないようだ。が、ヤンク・レイチェルなどブルースマンとの共演も多く。ブルースファンとしては、忘れられないミュージシャンの一人である。

 生まれは1909年3月末4日、テネシー州デイトン(Dayton)。亡くなったのは2003年6月30日で、94歳の長寿を保った人だった。


 1985年に発売されたビデオ映像で、アームストロングの愛称をとって『Louie Bluie』と題されている。ブルースの歴史の上では貴重な映像を含み、アームストロングの活動を追ったドキュメンタリー調の作品になっている。下の写真2枚は、このビデオからの画像。


 左から、マンドリンのYank Rachell、バンジョーのIkey Robinnson、立ってバイオリンを弾いているのがHoward Armstrong、そしてギターはTed Bogan。


 こちらの映像では、マンドリンを弾いている。一見するとバックが丸いボディのようだが、横から撮影した映像を見るとフラットマンドリンのようだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース157James "Yank" Rachell(ヤンク・レイチェル)

2023年04月18日 | わたしのレコード棚
 すぐれたマンドリン奏者・ヴォ-カリストであるヤンク・レイチェル(James "Yank" Rachell)は、1910年3月16日テネシー州ブラウンズビル(Brownsville)の生まれ、というから1911年生まれのロバート・ジョンソンと同世代といえる。亡くなったのは1997年4月9日インディアナポリス(Indianapolis)で、早世したジョンソンに比べて、長く演奏活動をした長寿の人だった。
 10代からマンドリンの演奏を始め、ハウスパーティーなどでハンボーン・ウィリー・ニューバーン(Hambone Willie Newbern)と共に活動、スリーピー・ジョン・エステスに出会ったのは1920年代の初めころ頃らしく、まだ10代の初めだったことになる。1920年代の終わり頃に、エステスにジャブ・ジョーンズ(Jab Jones)を加えて、3人で「Three J's Jug Band」としてメンフィス周辺で演奏活動をしたという。エステスとの演奏は、大恐慌などで中断したものの、彼エステスが亡くなる1977年まで続くことになる。
 1929年のエステスとの録音「The Girl I Love,She Got A Long Curly Hair」は、下の『RCAブルースの古典』および『続RCAブルースの古典』で聴ける。この曲で、ジャブ・ジョーンズはピアノを弾いてる。


  その後の大恐慌で、レイチェルもブラウンズビルの農場に戻らざるを得なかったらしい。が、演奏活動は続け、ハーモニカのサニーボーイ・ウィリアムソン#1などとも演奏・録音している。インディアナポリスに移動したのは1958年で、それ以降は様々なミュージシャンと共演し、あるいは中心になって活動している。

サニーボーイ・ウィリアムソン#1の名アルバムで、ARHOOLIEレーベルのBC3。この中で、1938年にレイチェルがマンドリンで加わった2曲が聴ける。写真のギタリストは、ビッグ・ビル・ブルーンジー。


 DELMARKレーベルのLPでDS649。シカゴで録音されたシカゴ・ブルースのスタイルでの演奏。くわしいデータは無いが、発売は1987年となっている。
ドラムスは、1985年にロバート・ロックウッド・ジュニァーと共に来日し、すばらしいシカゴのリズムを聞かせてくれたオーディ・ペイン(Odie Payne)。ギターは、フロイド・ジョーンズ(Floyd Jones)。べースは、ピート・クロフォード(Pete Crawford)。この録音時あるいは下のビデオ映像時も、すでに70代半ばのはずだが、声に張りがあり年齢を感じさせない演奏だ。


 1985年発売のビデオフィルム『Louie Bluie』よりの映像。後ろでバンジョーを弾いているのはIkey Robinson、その後ろにこのビデオの主役でバイオリンを弾いているHoward "Louie Bluie" Armstrong、ギターリストは見えていないがTed Bogan。

 上の写真と同じビデオだが、使用しているマンドリンを大きく撮ってみた。ご覧の通り、フラットマンドリンにピックアップを付けた「エレクトリック・マンドリン」だ。

 レイチェルは詩人としてもすぐれ、今もシカゴで歌われているレイチェルのフレーズも多いらしい。かの、B・B・キングもレイチェルのファンだという。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚ーブルース156David Evans(ディヴィド・エヴァンス)

2023年04月11日 | わたしのレコード棚
 白人のリサーチャーであるディヴィド・エヴァンス(David Evans)は、1944年1月22日マサチューセッツ州ボストンの生まれ。UCLAで学び、その後南部を旅して主にメンフィス周辺の隠れたミュージシャンを多く発掘し、後世に残る録音活動をした。個人的な評価になるが、1970年にジャック・オーウェンスを発見し録音を残したことは大きな業績と言える。
 エヴァンスはミュージシャンでもあり。ギターリストとして優れた録音をしている。このブログでもすでに紹介したが、ハミー・ニクソンのアルバム『Tappin' That Thing(1984)』でのバッキングは秀逸。そのニクソンのアルバムは「High Water」というエヴァンスが主要なメンバーになっているレーベルから出ている。その他、解説や著作も多数あり、わたしのようにブルースを文化として研究・演奏することをライフワークにしている者にとっては頼りになる存在といえる。



INSIDE MENPHISというレーベルのCD『Shake That Thing !』。エヴァンス(G,VO,Kazoo)がリーダーと思われる「Last Chance Jug Band」というバンドのアルバムで、ごきげんなメンフィス・サウンドを聴かせてくれる。
他のメンバーは、Jobie Kilzer(harmonica&Jug)、Dick Raichelson(piano)、Tom Janzen(drums)、Richard Graham(one-string bass)。イラスト左下でギターを構えているのがエヴァンスのようだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする