文化逍遥。

良質な文化の紹介。

5月も終わり

2017年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 明日で、5月も終わる。今日の天気予報では、東京で30度、関東内陸部では32度くらいまで上がりそう、とのこと。こちら千葉でも、午前10時現在の室温は26度。季節外れの暑さは体にこたえる。それでもエアコンは入れたくない。エネルギーの無駄使いは、環境悪化の負のスパイラルに陥る。

 千葉公園に咲く初夏の花々の写真を見て、緑を通り抜ける風を感じて、団扇で暑さをしのぎたい・・って無理か。撮影は、5/29夕。


手前の紫色の花は芍薬。


あざやかな黄色いバラ。


カルガモか。あるいは、飛べないのか、一羽だけ取り残されたように公園内を歩きまわっている。人が居てもまったく意に介さず、足元まで来て採餌している。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川国彦元成田市長を悼んで

2017年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
 元衆院議員で成田市長も務めた小川国彦さんが20日死去した。84歳だった。

 すでに、千葉県に住む人でも知る人は少なくなっているだろうが、かつて成田空港の建設をめぐり激しい反対運動があった。その中で、反対派にも機動隊にも死傷者が出た。当初、国会でも社会党を中心に政府の一方的な方針決定に反対運動が起きたが、現地の運動が次第に過激になっていく中で野党は手を引いていった。
 そんな複雑な政治状況の中でも、筋を通そうと活動を続ける政治家も確かにいたのだ。小川国彦さんもそんな一人だった。全国紙に小さな死亡記事が載っただけで、ひっそりと旅立って逝かれた。わたしも、東京新聞の千葉地方版に掲載された追悼記事で知ったところだ。無断転載は出来ないので、以下にその記事の要点だけをまとめておくにとどめることにする。


 『一九六六年、国は成田空港の建設地を成田市と芝山町にまたがる地域に決定。当時、社会党の県議だった小川さんは生前、本紙の取材に「寝耳に水。数十年続く問題になると、覚悟した」と話していた。反対運動が過激化し、社会党は運動から距離を置いたが、小川さんは県議会、七六年からは社会党衆院議員を六期務め、国会で成田問題をただし続けた。
 小川さんは九五年の成田市長就任後、二本目の滑走路建設に向け、空港用地内の地権者に(話し合いによる解決のため)頭を下げ続けた。
 二〇〇三年、二期途中で市長を辞任した後も空港の問題に関わり続けた。新たな滑走路建設や深夜・早朝の運用時間を延長する空港の機能強化案については「騒音下住民が、国や県と同じ立場で議論ができていない」として、国と県、成田国際空港会社(NAA)、地元九市町でつくる四者協議会に、住民側に立つ第三者組織を加えるよう、国会に求めた。』(東京新聞の5/23千葉地方版より抜粋)


 2003年に任期の途中で市長を辞任されたのは、公約の成田空港圏広域合併構想が議会で否決されて頓挫したためだった。 最近、国会議員の不用意で心ない発言が頻繁に報道され、政治家としての資質が問われる人も多い。そんな中で、しっかりとした政治理念を持った人の死が知られることも無いのは、あまりに残念なので、このブログであえて取り上げさせてもらった。ご冥福をお祈りします。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾修著『高遠旅石工たちの幕末』2016年講談社エディトリアル刊

2017年05月19日 | 本と雑誌
 今年に入ってから、ひどいドライアイと眼精疲労で読書を控えていたが、このところやっと少し症状がやわらいできた。というわけで、最近、図書館から借りて読んだ本の中から印象に残ったものを一冊。

 

 松尾修著、小説『高遠旅石工たちの幕末』。著者は公務員の方で、仕事の傍ら信州を題材にした小説を執筆しているという。「高遠」は、現在の長野県伊那市北東部あたりの旧名。江戸の昔は、山地が多い信州辺りでは農業に代わる産業として石の加工などが奨励されており、多くの名工を出したという。そんな、優れた技術を持つ石工たちも農閑期などには旅をして各地で石仏などを彫っていたという。この本は、「高遠旅石工」の幕末期における旅とロマンのストーリーになっていて、読みやすく史実に題材をとった内容は興味深かった。ただ、主人公嘉助の人格が完成され過ぎているようにも感じたが、そこは、まあ、あくまで小説という事で楽しみたい。

 実は、わたしの母方の祖父に当たる人が千葉の外房の田舎町の石工だった。そのこともあり、昔の石工の生き様には興味があったのだ。この祖父は明治13年の生まれで、私が生まれるかなり前、昭和18年に亡くなっている。なので、実際にその働きぶりを見たこともないが、亡き母から聞いた話によると、毎朝炉に火を入れ、鞴(ふいご)で風を送っていたという。長年、石工がなぜそんなことをしなければならないのか疑問だったが、この本を読んで納得した。今でこそ、電動機器で石を彫るが、昔は石を鑿(のみ)で彫るため道具類が欠損する。それを修復するために石工には鍛冶の技術が必要だったのだ。逆にいえば、自分の道具を作れなければ一人前の石工職人とは言えない時代があったのだ。
 また、祖父も千葉の外房から東京方面に出て仕事をすることも多く、家にはあまり居なかったとも母は言っていた。それが、地元に仕事が少なかったためか、あるいは人手が足らないために乞われて行ったのかは分からない。おそらく、その両方の場合があったのだろう。なにしろ、明治・大正の頃と言えば、鉄道は蒸気機関車で、総武本線は両国が終点だったのだ。一度稼ぎに出れば、簡単には帰ってこられない。

 以前、学生時代の友人たちと群馬県の温泉によく行っていた。山道を歩いていると、道祖神などに出会うことも多かった。特に、沢渡温泉では、旅の石工が漂泊してきて掘ったという石仏群が川沿いに並べられていた。当時、すでにかなり傷んでいたので、今はどうなっているかわからない。あの、石仏達も、ひょっとしたら高遠旅石工の手によるものなのかもしれない。下の写真は、川原湯温泉の近くで道端にたたずむ道祖神を2000年11月に撮ったもの。千葉市にも旧街道などに道祖神はあるが「道祖神」と漢字で彫られているだけのものが多い。仲睦まじい男女の姿を硬い石に彫るのは、技術だけでなく精神性が必要だろう。名も無き職人達に感謝。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2015年メキシコ映画『ノー・エスケイプ』

2017年05月13日 | 映画
 5/11(木)、千葉劇場にて。監督はホナス・キュアロン。原題は「Desierto(砂漠)」。



 メキシコからアメリカへ不法入国を試みる15人の移民達。途中、車の故障により歩いて砂漠を超えなければならなくなる。しかし、そこには猟犬とライフル銃を持った一人のアメリカ人が待っていた。次々に撃ち殺されるメキシコ人達。執拗に追いかけるアメリカ人もまた心を病み、バーボン・ウィスキーを水のように胃に流し込んでいる。

 今年、アメリカ合衆国の大統領が変わり、アメリカとメキシコの国境に壁を築くと豪語している。しかし一方で、合法的な移民は歓迎する、とも言っている。そうなると、麻薬などの違法取引は別にして、なぜ危険を冒してまで違法な移民が絶えないのか、そのあたりがなかなか理解できない。どこに根本的な問題が潜んでいるのか、経済格差、政治体制の不備、貧困、・・等々おそらく複合的な原因があるのだろう。そのあたりの社会的病理を理解する一助になるかと期待したが、この映画では「逃走劇」に終始していて、リーフレットのうたい文句のとおり「サバイバル・エンタテイメント」に終わっている。その意味では期待はずれ、と言うほかはないが、国境をはさんだ落差・狂気を描いた作品とは言える。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしのレコード棚―ブルース36、A.C Forehand & Blind Mamie Forehand

2017年05月09日 | わたしのレコード棚
 イヴァンジェリスト(evangelist)という言葉がある。これは、辞書によると「福音伝道者」あるいは「在家の伝道者」となっている。あえて日本風に云うと、琵琶法師に近いようなものだろうか。街角や、なにかの集会での演奏・歌などを通して布教活動をして、幾ばくかの喜捨を得、それを生活の糧にしていた人達がいたのだ。ブルースの歴史を考える上で、このイヴァンジェリスト達の演奏は見落とせない。このブログで取り上げた中でも、ウィリー・ジョンソン、ワシントン・フィリップス、さらにゲーリー・デイヴィスなどもそれに当たるだろうし、ブルースマンの中にもゴスペルを演奏する人も多い。
 今回取り上げるフォアハンド夫妻―A・C・フォアハンド&ブラインド・マミー・フォアハンド(A.C Forehand & Blind Mamie Forehand)も、メンフィスで活動し、同地で歴史的録音を残した イヴァンジェリストと言える。


 オーストリアのWOLFというレーベルから出ていたLP『Country Gospel Guitar Classics(1927-51)』。ここに収められている1927年の5曲が二人の残した全ての録音らしい。その内の2曲が下の写真のLP、Folkways,RBF19『Country Gospel song』にも入っていて、サム・チャータースによる解説によると、1927/2/25金曜日にメンフィスでA・C・フォアハンド(Vo & g)がまず2曲録音し、よく月曜(28日)にマミー・フォアハンドを連れて来て再度3曲を録った、とある。奥さんのマミー・フォアハンドは、トライアングルのようなものを鳴らしながら、線は細いが素朴に歌い、A・Cはスライド奏法で見事なバッキングをしている。このマミー・フォアハンドの使っている打楽器についてチャータースは、インディアン・テンプル・ベル(an Indian temple bell)のようなライト・ベル(the Light bell)と書いている。なので、鉦というよりもハンドベルのようなものだったのかもしれない。


 二人の詳しい生没年は分かっていない。インターネットなどで調べたところ、A・C・フォアハンドは、1890年頃ジョージア州生まれで1972年にメンフィスで亡くなり、マミー・フォアハンドは1895年頃アラバマ州生まれで1936年頃メンフィスで亡くなったらしい。


 ゴスペルを聴くと、いつも思う事がある。それは、宗教の持つ「排他性」と「寛容性」だ。相反することだが、事実として眼前にある。宗教対立から紛争になり多くの犠牲者が出ることも事実だし、慈善活動を献身的に勤める宗教者がいることも又事実だ。おそらく、宗派に分かれ強い組織が成立すると排他性が強くなるのだろう。すぐれた宗教者は組織を否定し一人祈り活動する、そんな気もする。日本でも親鸞のように、寺を持たず教団組織を作ることを否定した人もいる。が、歴史とは皮肉なもので、後の浄土真宗は「講」という地域に根ざした組織を作ることによって信者を獲得し、生き延びてきた。

 街角にひとり立ち、見知らぬ人に歌いかけたイヴァンジェリスト。宗教の基本はそこにあるようにも思うが、どうだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花見川サイクリングコース、その3下流域

2017年05月04日 | まち歩き
 先週に続き、5/2(火)午前、再び花見川サイクリングコースへ行ってきた。今回は、国道14号脇に沿って続く歩行者・自転車道を通って花見川に至り、下流方向へ向かった。


下流方向。写真右奥に見えるマンション群の向こう側には幕張メッセなどがある。


花見川河口。橋の向こうは東京湾。


河口から神奈川方向を撮影。この日は、連休の谷間だったが、休みの工場なども多かったのか空気がきれいだったようでかなり視界が良かった。遠く山梨や神奈川の山々とおぼしき峰々が見渡せる。


こちらは、東京方向。右端にスカイツリーが見える。


こちらは南の方向で、房総半島南部の山が見える。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年ボスニア・ヘルツェゴビナ映画『サラエヴォの銃声』

2017年05月01日 | 映画
 4/28(金)、千葉劇場にて。監督・脚本は、ダニス・タノヴィッチ。



 サラエボを舞台とし、ボスニア紛争を題材とした映画を観るのは、これが4本目になる。『パーフェクト・サークル』、『サラエボの花』、『サラエボ、希望の街角』、そして今回の『サラエヴォの銃声―英題「Death in Sarajevo」(ある、サラエボの中の死)』。いずれも、バルカン半島における民族紛争を扱っていて、その解決の糸口を見つけようとしても見いだせないもどかしさが伝わってくる重い作品になっている。
 この映画は、第一次世界大戦のきっかけとなった1914年のサラエボ事件から100年を迎える日、古いホテルでの一日を描いた作品。ホテルに集う様々な人々。一方で、従業員達は2か月も給料が支払われていないことに怒ってストライキに入ろうとし、それを暴力を使ってでも止めようとする支配人は次第に疲れ果ててゆく。屋上では、ジャーナリストが、さまざまな戦争とその結果について立場の異なる人物と論争をし、テレビカメラがそれを追い続けている。この論争シーンは圧巻だった。セリフが速くて、字幕を読むのが追いつかない感じだったが、宗教や利害が対立する地域の複雑さと混迷、その中で生きねばならない人々の苦悩が滲み出ているかのようだった。

 千葉劇場での上映はこの日が最終で、あやうく見逃すところだったが、予想以上の佳作で、観ておいて良かった、と感じた。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする