文化逍遥。

良質な文化の紹介。

わたしのレコード棚―ブルース13、Ramblin' Thomas,Oscar Woods,

2011年05月29日 | わたしのレコード棚
 ランブリン・トーマス(Willard Rambiln' Thomas)もくわしい事はよく分かっていない人だが、1902年頃にルイジアナかテキサスで生まれ1930年代後半か40年代にメンフィスで亡くなったらしい。
 ローン・ウルフ(The Lone Wolf)ことオスカー・ウッズ(Oscar Woods,c1900La~1956La)は、ブルース・マンというよりオールマイティ・ミュージシャンとでもいった方がいい多才な人で、1930年に白人ヒルビリー歌手のジミー・デイヴィス(Jimmie Davis―後のルイジアナ州知事で「You Are My Sunshine」の作者)のバックで2曲、’36年に単独でブルースを3曲、’38年までにデキシー・ランド・ジャズに近い形でラグなどを録音している。さらには、’40年にジョン・A・ローマックスが議会図書館のための録音をしたらしいが、それは残念ながら手元にはない。

 この二人はともにテキサスからルイジアナにかけて活動し、ギターはスライド奏法が多いがボトルネックを使って弾くのではなくボディを膝に寝かせてナイフなどを使って弾くハワイアンのようなスタイル(ナイフ・スライド)だったらしい。この弾き方だとナイフを斜めにして弾くことや単弦で弾くこと、さらにハイポジションでの演奏も容易なため、よりバラエティーに富んだ音作りが出来る。ちなみに、普通に抱えて弾くのはスパニッシュと言われ、ギブソンのエレキギターの型式に「ES-・・・」と有るのはElectric Spanishの頭文字から来ている。


Rthomas
 イギリスのレーベルMATCH BOXから出たLP、MSE215。ランブリン・トーマスの1938年の14曲と’32年の2曲で、全16曲入りコンプリート・レコーディングになっている。が、今では’32年に録音した2曲が新たに見つかっているらしい。一方で、下に写っているCDの解説を書いた小出 斉氏は、’32年の録音は「弟のジェシーが、兄の芸名を使って吹き込んだ、という可能性もありそうだ。」と書いている。わたしも、’32年のものはどうも音も言葉もちょっと違うんじゃないかな、という気がする。
 LPの解説を書いたポール・オリヴァー(Paul Oliver)は、1964年の夏にロンドンで詩人のラングストン・ヒューズ(Langston Hughes)と会ったときに、彼が好きなブルース・シンガーの一人としてランブリン・トーマスを挙げたので驚いたと書いている。実際、他のブルースマンには無い、詩人としての才能がトーマスにはあったようだ。「歌うたい」というよりも「弾き語り」と言った方がふさわしい人で、メロディー・ラインが変化に富むような歌は無いが、語るように歌いギターに答えさせるいわゆるコール・アンド・レスポンスにすぐれている。CD付属の歌詞カード から「Lock And Key Blues」の一節を紹介しておく。
 Springtime comin' and the grass all growin' green (春になって草木が緑に色づいてきたよ・・)
こんな季節感のあるブルースの詞は、他に知らない。そもそもイーストコーストならまだしも、亜熱帯気候といわれる深南部にこんな季節感を盛り込んだ歌があるとは思ってもいなかった。下のCDにはトーマスの16曲と、ウッズの戦前に残した録音10曲を収めているが、歌詞カードが付いていたのでそれを見るまでトーマスの詩才に気づかなかった。それでなくとも英語など聴き取る力が不足しているのに、古い録音は雑音や訛りもあってほとんど聞きとれない。ちゃんと歌詞カードを付けてくれたP-VINEさんに感謝。

Pcd20074
 最近手に入れたP-VINEのCD20074。ブルース系のミュージシャンは、ブルーノート・スケールにこだわるものだが(それしか出来ないとも言えるが・・自分も)、オスカー・ウッズはダイアトニックに近い音を使いこなしている。ヒルビリーのバックを黒人が付けるなどあまり聞いたことがないし、後に公民権運動が起こる中で合衆国全体に政治的に険悪な雰囲気が生じる歴史を考え合わせると、ウッズのデイヴィスとの1932年の録音は貴重なものだと思う。


Bar
 トーマスやウッズが実際にナイフを使って演奏したかはわからないが、参考までにラップ・スチールやスクエアー・ネックのドブロなどで使うスライドバーの写真を載せておく。一番右のものがブルースでよく使われる、いわゆるボトル・ネックで左手の薬指か小指に差し込んで使う。中央と左のものがラップスチールなどに使われるもので、左手の三本の指で挟み親指で支えるように持って使う。いろいろやってはみたが、簡単にはうまくいかないもんですよ、やっぱり。


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ナット交換

2011年05月27日 | ギター
 金は無いがヒマはあるので、ソニード・ギターのナットを自分で交換することにした。
 ナットは消耗品なので必要に応じて交換しなければならないが、「ナットを換えさせればリペアマンの腕がわかる」と言われるほど、簡単なようで実は繊細な作業だ。付けることもさることながら、はずす時もギターにダメージを与えてしまうことが多いので注意が必要になる。今回も、うまくはずせなかったら無理をせず早めに諦めようと考えて作業を始めた。

Nut1
 ヘッドの上に溝がなくナットが載っているタイプのギターなので、ナットの下にカッターナイフを少しずつ入れて浮かせるようにしたら、予想していたよりも簡単にはずれた。溝になっているタイプのギターだとこう簡単にははずせそうにない。この後、ボディ側に残った接着剤のカスをヤスリで取ってきれいにする。

Nut2
 新しいナットを載せてみたところ。使ったのは、グラフテック(Graphtech)社製のタスク(TUSK)PQ-4000という大きめのブランク(溝なし)ナット。ソニード・ギターはナット幅が44.5ミリ程あるので既成品は合わない。ヤスリを使って、注意深く削って合わせてゆく。タスクの材質は人工象牙ということだが、合成樹脂だろう。音の響きとしては、ストレートに伝わる感じがして他の材質に勝るとも劣らない。値段は1000円でおつりがくる程度で、なにより加工し易いのがうれしい。
 写真の下側に写っているのはさまざまな種類のヤスリ。子供の時から何でも自分でやるのが好きだったので、道具はいろいろ揃っている。そのわりには、なにをやっても下手で、お袋に「いたずらして壊すんじゃないよ」とよく叱られた。
 
Nut3
 なんとか無事に装着。このあと微調整して、自分に合う高さまで弦高を落として完成。
最終的には満足、と言いたいところだが、高めの弦高が好きなのに少し削り過ぎて低めになってしまった。まあ、完璧にはほど遠いがなんとか使えるので、60点といったところかな。時間を惜しまず一日かけてやったが、やっぱり微妙なところで不満が残ったりする。お金がある人、ギターを傷つけたくない人は、専門のリペアマンに頼むのが無難なところ。


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わたしのレコード棚―ブルース12、Bo Weavil Jackson,Bobby Grant,King Solomon Hill,

2011年05月25日 | わたしのレコード棚
 事績はほとんど知られておらず録音も少ないが、ブルースのプロトタイプ(原型)と思われるスライド系のギターリストを3人上げておきたい。前回のロバート・ジョンソンにもかなり影響があったのではないかと思っている。
 
 ボー・ウィーヴィル・ジャクソン(Bo weavil Jackson=Sam Butler)の生没年ならびに場所はよくわかってない。CDの解説によると、アラバマで活動していたらしい。録音は1926年シカゴで6曲、同年ニューヨークで7曲。もっとも初期に録音を残したブルースマンの一人と言えるだろう。スライド奏法ばかりではなく、ストロークでコードを弾くフォーク・ソングに近いものも有り、ストリートで演奏していた様子を彷彿とさせる。
 ボビー・グラント(Bobby Grant)は、1927年にシカゴで2曲のみを録音しているが、やはりくわしい生没年などはわかっていない。ギターのうまい人で、音の使い方に独自のものがあり、リズムも流暢でわたしには後のブルースマンよりもむしろ洒落た感じに聞こえる。
 キング・ソロモン・ヒル(King Solomon Hill=Joe Holmes,c1897Miss~c1949La)は、1932年に北部ウィスコンシン州のグラフトンでパラマウントに6曲の録音を残しただけだ。サム・コリンズやブラインド・レモン・ジェファーソンと共に演奏活動をしていたこともあるらしいが、くわしいことはわかっていない。ファルセットを使ったり、演奏スタイルはジェファーソンの影響も感じられる。あくまで個人的な想像だが、ロバート・ジョンソンはこの人にかなり影響を受けたのではないだろうか。それにしても、キング・ソロモンとは旧約聖書から取ったのだろうが、すごい名前。南部から出たミュージシャンには訳のわからない芸名が多い。それは、その人のあだ名だったりすることもあるが、多くはレコード会社が一人のミュージシャンを録音する際に他のレコード会社と重複した場合の問題を避けるためと大衆の気を引くためだったらしい。なので、一人の人が複数の芸名を持っていることもあり後の時代のわれわれから見れば混乱してしまうことも多い。



 このCDは、DOCUMENTの5036『Backwoods Blues』。Backwoodsとは普通に考えれば森の奥ということで、「かなりな田舎」あるいは「辺境」という意味になるが、あるいは北部から見た南部という広い地域を指しているのか、はたまたその人のくわしい事が隠れていて見えないという意味もあるのかもしれない。4人のブルースマン、すなわちBo weavil Jackson,Bobby Grant,King Solomon Hill,Lane Hardinの残した全録音を収録。録音はみな北部の都会で行われている。
 レーン・ハーディン(Lane Hardin)もくわしいことはわからない人だが、CDの解説によると亡くなったのは1949年になっている。録音は1935年にシカゴでの2曲「Hard Time Blues」「California Desert Blues」だけらしい。ギターはスライド奏法ではなく、聴いた限りではロバート・ピート・ウィリアムスを、裏声で歌いきるところはスキップ・ジェイムスを想わせる。解説にはキング・ソロモン・ヒルの記憶として、テキサスからルイジアナに出た人でシブレイ(Sibley)でプレイしていた、とあるのでルイジアナで活動した人かもしれない。12弦ギターを使っているようにも聞こえるが、定かではない。曲名を見てわかるように、曲のテーマはブルースというよりフォークに近く、ウッディ・ガスリーをも連想される。この頃は「ブルース」という固定観念はまだ弱く、さまざまなミュージシャンが地方都市を渡り歩いてプレイしていたのを想わせる。 


Yazoo1026
 こちらのLPはYazooの1026、戦前のボトルネック・ブルース・ギターリストの14曲を収録。先人達が、いかに苦労と工夫を重ねて音楽を作り上げてきたか良くわかる名盤。演奏者・曲名・録音年は以下のとうり。
A面:King solomon Hill-Whoopie Blues(1932),Barbecue Bob-Atlanta Moan(1930),Shreveport Home Wreckers-Fence Breakin' Blues(1930),Robert Johnson-Milkcow's Calf Blues take2(1937),Black Ace-Black Ace(1937),Ruth Willis-Man Of My Own(1933),Jim & Bob-St.Louis Blues(1933),
B面:Bo Weavil Jackson-You Can't Keep No Brown(1926),Weaver & Beasley-Bottleneck Blues(1927),Ramblin' Thomas-So Lonesome(1928),Kansas Joe & Memphis Minnie-My Wash Woman's Gone(1931),Oscar Woods-Evil Hearted Woman Blues(1936),Bukka White-The Panama Limited(1930),Irene Scruggs-My Back to The Wall(1930),
 このなかでランブリング・トーマス(Ramblin' Thomas)とオスカー・ウッズ(Oscar Woods)は次回に、それ以外のミュージシャンは回を改めて取り上げる予定。

 昔のブルースマンの録音に接すると、それぞれが音楽に真摯に向き合い、自分なりの音を作り上げてゆこうと苦心しているのが聴き取れる。大切な遺産として受け継いで、自分なりに良い音楽を創り出せればと思うが・・・正直言って荷が重い。 


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わたしのレコード棚―ブルース11、Robert Johnson

2011年05月21日 | わたしのレコード棚
 ロバート・ジョンソン(Robert Johnson)は、1911年5月8日ミシシッピー州ヘーゼルハースト(Hazelhurst)に生まれ、1938年8月16日に同州グリーンウッド(Greenwood)で亡くなっている。
 この人については、あまり説明もいらないだろう。多くのロック・ミュージシャンから尊崇され、現代のポピュラー音楽に最も影響力のあるブルースマンと言ってもいいだろう。ギター・スタイルとしては、伝統的なデルタのスタイルに都会的な音使いを盛り込んだもので、後にまで影響を与える斬新なものだった。毒入りウィスキーを飲まされて死んだと言われており、その時27歳だったことになる。その短い生涯で、様々なブルーススタイルを吸収して独自のスタイルを創り出すことが出来たのか、それは驚きでもあり、また早世したことが残念でもある。長く生きていたなら、さらに幅広いテーマを取って、良い音楽が出来たに違いない。ただ、多くのすぐれたブルースマンがいる中でなぜこの人が特別視されるように称賛されるのか、ブルース好きとしてはその点を疑問に思わざるを得ない。録音は、1936年にテキサス州のサン・アントニオのホテルと、1937年に同じくテキサスのダラスで2度行われ、今は全録音がコンプリート盤として2枚組CDで聞くことが出来る。


 ソニーレコードのLP。これがVOL.1で20AP2191 、下がVOL.2で2192。このレコードも、都内の輸入レコードショップなどを回り、ずいぶん探したものだったが、やっと手に入ったのは1981年にCBS/ソニーが国内盤を出してからだった。その頃は、まだ写真が発見されておらず、ごらんのとおり顔のない絵がジャケットに描かれている。

 
 2枚の写真は、同じLPのジャケットの絵で、右が表で左が裏。ホテルでの録音している様子が描かれている。この時、絵のように隣室で原盤に直接カッティングしたといわれている。今回あらためて聴きなおしてみて、音質の良さに驚かされた。生ギターの音があますところなく録音されている。録音技師の技術の高さを思わせる。


Rj3
 これがコンプリート盤CD、41曲入り。現在は、後に見つかった 「Traveling Riverside Blues」の別テイクを加えて42曲入りで発売されている。どうでもいいことだが、2011年は生誕100年の節目に当たるので記念のCDが出ているようである。デジタル技術の進歩によりノイズがかなり除去されているらしい。


 ジョンソンはギターのセンスもさることながら言葉にも巧みな人で、吟遊詩人のように伝統的なフレーズを自分なりに消化して詞を紡ぎあげてゆく。41曲のなかで、ギターでブレイク(間奏)を取ったのは1コーラスしかなく、ときに小節数や拍を変え歌いあげてゆく。カントリー・ブルースとしては珍しいことではないのだが、それを自然にさらりとやっているように聞かせてしまう。心にくいばかりだ。この後の時代にはブルースもバンドでの演奏が主流になるので、小節数を固定しなければ演奏に支障をきたすようになり、言葉を優先させた演奏は影をひそめるようになってゆく。が、言葉を奔放に駆使した弾き語りは聴いていて引き込まれるような魅力があり、捨てがたい。

 さて、その歌詞について一点、注意喚起しておきたい。有名な「Sweet Home Chicago」の一節、
    Back to the land of California - to my sweet home Chicago.
レコードに付いている歌詞の対訳では、「シカゴはイリノイ州にあるのだけれども、ジョンソンはカリフォルニア州と混同している」と注に有る。わたしも長いことそれを信じていて、映画『ブルース・ブラザーズ』などではBack to the same old place -とマジック・サムの歌詞で歌われていたのは間違いを修正したのだと考えていた。 しかし、のちに中山義雄氏が―ジョンソンの生きていた時代にはすでに死語になっていたようだが、Californiaには「金貨」の意味があった―と指摘されているのを読み、目からウロコが落ちた。
Scott Ainslie著『Robert Johnson』(Hal・Leonard publishing,1992)P19にも
「During the middle to late 19th century , the term ‘California’ became synonymous with the gold rush,wealth,and money.」とある。一応、訳してみる、
「19世紀中頃から後半、‘カリフォルニア’という語にはゴールドラシュ・富・おカネなどと同じ意義があった」。
語源的にも、「カリフォルニア」はスペイン語起源で「黄金の国」を意味しているとも言われている。スタインベックの小説『怒りの葡萄』の主人公のように、貧しいものにとってはカリフォルニアは夢の国で、単なる地名を超えた言葉だったのだ。

 それにしても高い声の出る人だなあ。ボトルネックを使った曲などではオープンAにチューニングして、さらに2フレットあたりにカポをつけている。ためしにちょっとまねしてみたけど、カポをつけるまえに声が出なくて断念した。不思議なのは、写真で見るかぎりジョンソンの抱えているギブソンのギター(L-1?)は12フレットのジョイントなのでカポを使うとオクターブを出すときには14フレットまで指(ボトルネック)を差し込まなければならないのに狂いもなく弾いていることだ。時には、さらにハイポジションまで使っているので、ボディの下側から手を 差し込んで弾いた可能性が高い。いずれにしても、器用な人だったことは間違いない。

2022年6月加筆改訂。

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わたしのレコード棚―ブルース10、Son House

2011年05月18日 | わたしのレコード棚
 サン・ハウス(Son House=Eddie James,Jr)は、1902年ミシッシッピー州リヴァートン(Riverton)生まれ。'30年5月、パットンやブラウンらと共に北部グラフトンに行って最初の録音。'41年と'42年にミシッシッピーで議会図書館のための録音をしたあと音楽活動を停止してニューヨーク州ロチェスターに移り、鉄道会社で荷物運びなどをしていたらしい。その後フォーク・リヴァイバルが起こり'64年に「再発見」され、'74年に健康上の理由で引退するまで多くの録音・ライブ・映像を残した。'76年にミシガン州デトロイトに移り'88年10月に同地で亡くなっている。


 BIOGRAPHレーベルのLPで、BLPー12040。グラフトンでの6曲を含む、ブラインド・レモン・ジェファーソンとのカップリングレコード。ジェファーソンとの組み合わせは異質なようだが、FOLKLYRICレーベルのLPに入っている「Country Farm Blues」はジェファーソンの「See That My Grave Is Kept Clean」を基にしており、あるいは追悼のための曲かもしれない。


 ROOTSレーベルのLPで、RSE-5。上のLPと同じ1930年のサン・ハウス6曲と、その時サンと共にグラフトンに行き録音した朋友のウィリー・ブラウン、さらに女性ヴォーカルのルイース・ジョンソンなど、さらに、1941年のブラウンのギターをピックアップした3曲を収録。道に迷った時、進むべき方向を教えてくれる名盤中の名盤。


 FOLKLYRICレーベルのLP9002。1941年および'42年のアラン・ロマックス(Alan Romax)による議会録音14曲を収録。フィールド・レコーディングのため「Shetland Pony Blues」には近くを走る汽車のシュシュという音が入ってる。わたしは、このLPが一番好きだ。再発見後の演奏は聴衆の好みに引きずられてかブルース・ゴスペルを強調したものが多いが、この時にはヴァリエーションが広くノーマルチューニングでフィンガーピッキングに近い演奏もある。多才で音感のすぐれた人だったのだ。


 CBS/ソニーから出た再発見後'65年4月録音のLPでSOPJ94。下の2枚組CDは、コンプリート盤。このLPを買ったのは確か高校生の時で、’70年代の中頃だったろうか。最初は正直あまりピンとこなかったなあ。この人の良さが本当にわかるのは、中年過ぎて身近な人が亡くなってゆくのを体験するようになってからだった。

 上の録音時のコンプリート盤CD2枚組で、COLUMBIA/LEGACYレーベルのC2K48867。


 KING BEE RECORDSレーベルの2枚組LP1001。1965年4月、オハイオ州オバーリン大学(Oberlin College)でのコンサートのライブ録音。このときは声の張りがあり、乗りもよく、良い演奏になっている。

 同裏面。写真は左から、サン・ハウス、スキップ・ジェイムス、ブッカ・ホワイト。

 同LP内の写真。


 イギリスのMagnumというレーベルのLPでBMLP1020だが、音源は上のLPと同じもので、曲数を減らして1枚に編集したもの。

 わたしの聞いたところ、サン・ハウスという人はその日の気分(体調?)によってキイを変える人だったようだ。この時は、以前オープンGでやっていたものを全体に一音落としてFにしているようだ。リゾネーター・ギターで低くチューニングするとピッチが狂いやすいので、最初はオープンEで1カポかと思った。そこで、実際に自分のリゾネーター・ギターでFオープンまで落として低くチューニングして試してみたが、思っていたほど狂いは無く演奏できた。


 ロバート・ピート・ウィリアムスとのカップリングLPで、AUTOGRAMレーベルALLP-263。1965年のライブだが、この時は体調が悪かったのか声に張りがなく、あまり良い演奏とは言えない。が、「サン・ハウスでもこんな演奏をする時があるんだ」と、一人の人間としての彼を感じる様で、自分が演奏する時の参考にはなる録音と言える。


 DOCUMENTレーベルのCDでDOCD-5148。1969年9月ニューヨークのサン・ハウスの自宅に録音機材を持ち込んで行われた、いわゆるロチェスター・セッション。自分の家にいる気安さからか、かなりリラックスして歌っているように聞こえる。7分を超える曲が5曲あり、その内8分を超える曲が1、20分を超える曲が1ある。この時、サンは67歳だったはずだが、20分を超えるブルースを一人で歌いきっている。驚異的、と言うしかない。


 1970年のロンドン・セッション。P-VINEが国内発売したPCD-765。客が騒ぎすぎていて、ちょっとうるさい感じ。

 サン・ハウスは、南部出身のブルースマンにしては珍しく大きな移動をし、長生きした人だった。ミシッシッピーのプランテーション(大農園)で生まれ、パーチマン・ファームで囚人生活を送ったこともあるという。差別の激しかった時代にあちこち移動して、さまざまな職をこなすにはよほど器用でなくては不可能だ。この人の86年間の生涯を想像すると、アメリカという国の20世紀の一面を垣間見る気もする。


2022年6月加筆改訂。

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わたしのレコード棚―ブルース9、Willie Brown 

2011年05月14日 | わたしのレコード棚
 ウィリー・ブラウンの生年も資料によってまちまちで、1890年~1895年としているのもや1900年としているものなど、かなりな開きがある。生まれた場所は、ミシッシッピー州クラークスデイル(Clarksdale)のようである。1941年にアラン・ローマックスがミシッシッピーで議会図書館のためのフィールド録音をした後、一時期サン・ハウスとともにニューヨーク州のロチェスターに移ったらしい。さらに、その後ミシッシッピーに帰り1952年頃に亡くなっている。なお、1942年にアーカンソーで「Mississippi Blues」や「Ragged And Dirty」などを議会録音したウィリー・ブラウンとは別人というのが今は定説になっている。


 このLPはヨーロッパのROOTSというレーベルから出たRSE-5。ジャケットの写真はサン・ハウス。ブラウンの写真は、残念なことに残っていないようだ。ブラウンのヴォーカルとギターでの単独録音は、1930年北部のウィスコンシン州グラフトンでの「M and O Blues」と「Future Blues」、そして1941年ミシッシッピーで議会図書館のための「Make Me A Pallet On The Floor」の3曲を収録。さらに、1941年の議会録音でギターのみを担当した2曲も収録している。
 上のLPには入っていないが、ブラウンの録音として残っているものでは、チャーリー・パットンの1930年5月のグラフトンのセッションでセカンド・ギター3曲を、さらに1941年ローマックスの議会録音の中の「Camp Hollers」でサン・ハウスなどとコメントが入っているものがある。わたしのところに有る資料はこれですべてで、ブラウンの残した録音もこれだけと考えられている。彼のようなすぐれたミュージシャンの録音がこれだけなのはあまりに惜しい。悔しささえ感じる。特に、'30年のグラフトンでの2曲はブルースのみならずジャンルを超えた「歴史的録音」と言っても良く、他の追随を許さない。その表現するものは、時の流れの複雑さ、と言えようか。人は感情的な生き物なので、喜怒哀楽、それぞれに感じる時間が複雑に入り混じっている。汽車の音、歩み、心拍、風、そして言霊(ことだま)。「すばらしい」としか言いようがない。


 ARHOOLIEからのFOLKLYRICレーベルLP9008。Ⅰ941-1942年のサン・ハウスが議会図書館のために録音した14曲を収録。この中で、ウィリー・ブラウンの声が入った「Camp Hollers」が聴ける。これは歌というよりも、昔の作業場にあったキャンプ(これは作業宿泊所で日本風に言えば「飯場」のようなところ)で夜な夜な酒を酌み交わしながら気持ちを吐露した「叫び」に近いものだろう。ブルースの歴史を知る上では、これも貴重な録音と言える。

 「M and O Blues」と「Future Blues」の2曲はブルース・ギターの教則本によくのるが、ブラウンのヴォーカル・ギターでなく「先生」の模範的な演奏だと、ダシの入っていない味噌汁みたいなもんで味気なく間が抜ける。P-VINEから出ているCD『伝説のデルタ・ブルース・セッション1930 』(PCD-24211)で聴くことが出来るので、ぜひ、オリジナルをじっくり聴きたいものである。


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わたしのレコード棚―ブルース8、Charley Patton

2011年05月11日 | わたしのレコード棚
 下のYazooの2枚組LPは、チャーリ・パットン(Charley Patton)を「Founder of the Delta Blues」としている。「Founder」は「 創設者」あるいは「基礎を作った人」という意味だが、現実にはパットン以前からデルタ・ブルースが存在していたことは疑い得ない。が、パットンは、先人たちの遺産を受け継ぎ「ブルースで飯が食える」ことを証明した最初のブルースマンの一人、と言うことは出来るだろう。つまり、「プロ・ブルースマンの嚆矢(こうし)」とでも云うのが正確なところではないか、とわたしは考えている。
 今日の我々から見れば、それは極めて重要なことで、エンターテイメント性を強く持ったブルースの始まりでもあり、それが後のモダンブルースやロックに繋がってゆく。その意味では、パットンの音楽は「商業的ブルースの始まり」と言えるのかもしれない。そこがまた、パットンの音楽への評価、あるいは人柄を大きく分ける一因でもある。パットンの音楽を「常にある種、崇高感が漂う(髙地明著『ブルース決定版』1994年音楽之友社刊)」という人もいて、そこから彼の人柄を導き出して尊敬する人も多い。が、一方で、例えばパットンの朋友とも言えるサン・ハウスがステファン・グロスマンのインタビューに答えて次のように語っている、「彼(パットン)は、酒のみでケチ、妻(バーサ)に金を渡さず、白人の台所から食べ物を持ってこさせていた」(Stefan Grossman著『Delta Blues Guitar』1969Oak PublicationsP11を要約し拙訳)。バーサは、当時白人宅で手伝いをしてたらしい。思うに、ブルースで稼ぐことが出来た初期のミュージシャン達は、おそらく手にした金を前に戸惑ったのではないだろうか。ある意味「あぶく銭」のように感じてしまい、金銭感覚が麻痺していったのかもしれない。

 それはそれとして、パットンの演奏していたのは、ジュークと呼ばれる踊れる酒場や、あるいはハウスパーティーだったので、彼の音楽は必然的に「ダンスミュージック」という側面が強い。なので、パットンをブルースの源流と考えると、ブルースは基本的に「ダンスミュージック」と、捉えることになる。一方で弾き語りに近いブルースマン達も多く存在していて、サン・ハウスは「飛んだり跳ねたりするのはブルースじゃない」と、きっぱり言っている。
 何はともあれ、良い音楽であれば、その性質は聴く者にとってはあまり重要ではない。ことにパットンはテーマが広く、男女のことはもとより、綿花を食い荒らす害虫を歌った「Mississippi Boweavil Blues」、あるいは洪水を取り上げた「High Water Every Where」など、重いテーマをさらりと歌い上げる才能には脱帽するしかない。が、例えば水害にあった人が洪水をテーマにした曲を聞いて楽しんだり踊ったり出来るのもなのだろうか、そのあたりの疑問は残る。
 それにしても、デルタのリズムの取り方は個性的で、間合いの取り方とシンコペーションは他の地域では聴かれない。ビック・ビル・ブルーンジーなどのようにミシシッピーからシカゴなど都会にでたブルースマンは多いのに、わたしの知る限りの録音ではデルタのリズムを匂わせるものは他の地域には少ない。デルタ・ブルースの真髄ともいえる強烈に叩きつけるようなリズムが、ある意味では泥臭くて受け入れられなかったのかもしれないが、残念な気もする。

 さて、そんなチャーリ・パットン の生年ははっきりしない。ミシシッピー州で生まれたことは間違いないだろうが、1881年又は1887年というのはパットンの姉妹や元の妻で、墓碑には1891年4月となっているらしい。亡くなったのは、1934年4月28日ミシシッピー州インディアノーラ(Indianola)だった。生年が特定できないので、何歳でなくなったのかも分からない。おそらくは40代半ばくらいから50代前半で亡くなったと推測される。酒のみで、乱れた生活をしていたとも言われ、内蔵を悪くしていたらしく、直接の死因は心臓病と言われている。。


 このYazooの2枚組LP(L-1020)も以前はなかなか手に入らなかった。1984年頃、仕事で横浜に行った時に、たまたま覗いた輸入盤のレコード店で見つけた。その時には、とても嬉しかったことを今でも良く覚えている。


 こちらは、裏面。Yazooにしては珍しく録音年順(chronological order)になっている。
 このLPには、デルタブルースを特徴付けるオープンGでのボトルネック・チューンばかりでなく、ノーマルチューニングでダンスの時に演奏されたと思われる曲や、当時のはやり歌と思われるものなどが取られており、パットンがパーティーを盛り上げてゆく様子などを彷彿とさせてくれる。余談だが、このLPにはブックレットが付いていて歌詞の他、ミシシッピの街や洪水、奥さんのバーサ・リー(Bartha Lee)の写真などを見ることが出来る。やっぱり、LPはいいなあ。保存には場所をとるけど、文字は見やすいし写真は迫力がある。



 パットンの全録音61曲を収録したP-VINEの3枚組のCD。ヘンリー・シムズ(Henry Sims)がヴァイオリンやヴォーカルで、ウィリー・ブラウン(Willie Brown)がギターで加わっている曲もある。また、亡くなる3ヶ月前のニューヨークでの録音ではバーサ・リーが2曲ヴォーカルで加わっている。


 これが1960年に撮影されたバーサ・リーの写真。パットンは何度も結婚しているが、バーサは最後の妻で、死ぬまで共にいたという。録音された声を聞くと、なかなかの美声だ。


 このCDは、『ブルース&ソウルレコーズNO.7(1995年ブルース・インターアクションズ刊)』にリヴューを書いたときにP-VINEから支給されたもの。ブルース中心の選曲で、16曲を収録。

 デルタのギターはどこから来てどこへ消えたのだろう。低音弦を下からはじき返して独特のシンコペーションを生み出す奏法は、パットン、ウィリー・ブラウン、サン・ハウス、3人のデルタ・ブルースマンを介して残った録音が主なものだ。他に、言ってみればヴァリエーションのようなものとして、ジャクソンのトミー・ジョンソンや、メンフィス近辺のミシシッピー・シークスなどが残した録音にその影響が残っているだけだ。いずれにしてもそれらは、やがてブルースの中心地になってゆくシカゴなど、他の地域まで伝わることはなかったのだった。もちろん、さまざまなミュージシャンがカヴァーはしている。が、デルタのシンコペーションまでは遠く、本質的なところまでは至っていない。録音の機会に恵まれなかったブルースマンも多いだろうし、まだどこかに埋もれている録音やブルースマンがいるかもしれない。デルタのギターは、世界遺産だと思っている。なので、地域を越えても、すぐれたミュージシャンが継承してくれることを願っている。

2022/5、加筆改訂

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わたしのレコード棚―ブルース7、Leroy Carr

2011年05月07日 | わたしのレコード棚
 前回「わたしのレコード棚―ブルース6」で紹介したギターリストのスクラッパー・ブラックウェルと活動したピアニストのリロイ・カー(Leroy Carr)は、1905年3月27日にテネシー州ナッシュビルに生まれ、1935年4月29日にインディアナポリスで30歳の若さで亡くなっている。’28年から’35年の死に至る7年という短い間に162曲の録音をしたといわれている。ブルースピアニストは数多いが、この人のピアノとヴォーカルは他のブルースマンにはない繊細さと流麗さがあり、伴奏にまわったブラックウェルの単弦でチョーキングを多用したギターとの絡みはこのコンビならではのものだった。正直言って、いつ聴いても感動する。さらに、ピアノとアコースティックギターでは音量がかなり違うのに、バランスが取れた録音をしていることにも感心させられる。


 もっとも初期、’28年の録音15曲を収録したMATCH BOX(UK)のLP。「How Long - How Long Blues」は、’28年6月のインディアナポリスでのテイクの他に同年12月シカゴでの2テイクを含み、合計3テイクを収録している。


 こちらのLPは、Yazoo1036。’29年から’34年までの録音が編集されている。ブルースばかりでなく、ジャズやポップな感じの曲、サーカスなどのショウの合間に演奏されたのではないかと思われる曲も含まれており、カーの作詞・作曲・演奏能力の高さを感じさせる名盤。’34年の録音では、ジョッシュ・ホワイト(Josh White,c1908~1969)がギターを弾いている曲もある。


 デンマークのレコード会社から出たLP。’34年の録音を集めたもの。「Blues Before Sunrise」が聴ける。


 オーストリアのDOCUMENTレーベルのCD5137。1932年から34年に録音された23曲を収録。「Complete Recorded Works In Chronological Order」となっている。カーが残した全録音を年代順にまとめたものということになり、これが第4巻(VOL.4)。


 同じく5139。1934年から、無くなる2ヶ月前の1935年2月25日シカゴでの録音まで、21曲を収録。このVOL.6で、このシリーズ最後だろう。わたしの手元にあるのは上のVOL.4と、このVOL.6の2枚。


 ’95年にP-VINEから出た、’28年から’32年までの16曲を収めたCD。このCDは、『ブルース&ソウル・レコーズ』という雑誌の7号でCDリヴューをわたしが担当させてもらったので、その時にP-VINEから支給されたもの。なんといっても最初の録音「How Long - How Long Blues」(1928、インディアナポリス)が聴けるのがいい。この8小節のブルースを最初に聴いた時には、セブンスがこんなにも曲全体に効果を及ぼすものかと感動したものだった。単純な曲で聴かせられるのは、ミュージシャンにほんとうの表現力があるからなのだ。

 カーは、大酒飲みだったといわれる。彼の生きたのは、禁酒法(’19~’33)の時代だ。隠れて作られた悪質な酒を大量に飲み命を縮めたのだろう。ブラックウェルもカーと出会う前はムーンシャイナー(夜陰にまぎれ月明かりで密造酒作りに関わる人)で、やはり大酒飲みだったらしい。ブラックウェルは、ひっとしたら酒の上のトラブルで撃たれたのかもしれない。酒飲みは、皆一様に「自分は大丈夫」と言う。が、その時にはすでに酒で判断力を失っていると思った方がいい。

2022/4加筆・改訂

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わたしのレコード棚―ブルース6、Scrapper Blackwell

2011年05月05日 | わたしのレコード棚
 スクラッパー・ブラックウェル(Frances Hilman Blackwell)は、1903年キャロライナ州(南か北かはっきりしない)に生まれ1962年にインディアナ州で撃たれて死んでいる。ピアニストのリロイ・カーなどのバックで絶妙なギターを弾いた。’35にカーが死んだ後しばらくして音楽活動をやめるが、’58年に「再発見」されてすぐれた録音を残している。時代が逆行するかたちになるが、再発見後の録音から紹介したい。


 1961年7月インディアナポリスでの録音。AceというヨーロッパのレーベルのLP(CH255)だが、オリジナルリリースはBluesville1047。実はわたしは、このLPに出会うまでは戦前にも単独での録音があることを知らず、ブラックウェルのことをすぐれた伴奏者としてしか認識していなかった。「一人でもやれるのか?」といった程度の気持ちで買ったのだが、聴いてビックリ、認識一変。ギターもピアノも一流の腕前でヴォーカルもしぶい。特にギターの奏法は低音側と高音側のバランスにすぐれ、わたしにとっては大切な一枚となった。


 こちらはdocumentのCD5275。’59年のインディアナポリスでのライブ録音12曲と、’60年の同地でのスタジオ録音10曲を収録したもの。ライブではブルックス・ベリー(Brooks Berry)という女性が3曲でヴォーカルを担当している。


 P-vineからでた戦前の録音で、二枚組CD5771/72。一枚目には、主に単独での録音25曲。二枚目にはリロイ・カーはじめ様々なミュージシャンとの共演25曲を収録していて聴きごたえ充分。左の写真で、立ってギターを構えているのがブラックウェル、座っているのがリロイ・カー。
 「ハードピッキング」という言葉がある。ギターの弦を、かなり強くはじき返すを弾き方を表現したものだが、エレキギターが普及して以降は強くはじかなくても良いので、すっかり影を潜めている。特にシカゴブルースでは、ブラックウェルを境に「ハードピッカー」は少なくなっていったように感じる。しかし、個人的には、1音1音に気持ちを込めて強く弾く奏法はとても魅力があり引きつけられる。わたしも、そんなプレーヤーになりたくて、スクラッパー・ブラックウェルが残した演奏をお手本にすることが多い。

2022/4加筆改訂

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