蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

石川啄木  (bon)

2012-04-13 | 日々雑感、散策、旅行
小説も書き、詩も書いたが歌人として最もよく知られている啄木は、明治15年(1912年)4月13日、
満26歳という若さで肺結核でこの世を去った。今日が祥月命日。

中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の金田一京助らと知り合うほか、後の
野口雨情や与謝野鉄幹の『明星』派の影響を受け、文学への志を抱いたとある。

16歳で中学を問題を起こして中退して上京する。『明星』に投稿した短歌が掲載されたこともあって
文学で身を立てるつもりだったが、仕事は何も見つからず、家賃を滞納して下宿を追い出され
半年も経たずに帰郷したりする。
17歳の時に初めて“啄木”の号を名乗り『明星』に長詩を発表して注目される。

19歳(1905年)で、処女詩集『あこがれ』を刊行すれば、一部で天才詩人と評価されるが、
父が金銭トラブルで住職を罷免され、またこの頃、中学時代からの彼女と結婚したことで、
4歳年上の金田一京助の援助を受けて、本郷に止宿して、生計のため小説を売り込むが成功せず。
逼迫した生活の中にあったという。

「東海(とうかい)の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

などの、よく知る多くの歌を作り、『明星』に発表している。


盛岡中学を中退した後、北海道にわたり代用教員、地方新聞記者、新聞校正係など職を転々とし
貧困と病弱に苦しみながら詩歌、小説、評論を書いた。

JR盛岡駅の もりおか は彼のもの。
 (ネットから拝借)


この啄木を金田一京助は、自身が結婚するまで、友人として金銭を含むさまざまな支援をしている。
そんな状況を、息子の、金田一春彦は次のように語っているという。 
啄木は、浅草に通い娼妓と遊んでいたこともあり、「彼の借金のほとんどはこうした遊興に
費やされ、それが為の貧困だった」と、また、当時の春彦はその様子をみて幼心に
「石川啄木は石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったことがあったという。

啄木は、若いにかかわらず与謝野鉄幹に連れられて、森鴎外の歌会に出席したり、
夏目漱石ほかそうそうたる面々との交流があったそうである。

このブログをアップするにあたって、ちょっと調べてみて、これまでに知る啄木の作品や、
貧困と病弱な境遇からくる彼のイメージとは少し異なった部分、例えば浅草の娼妓、
中学でのカンニング、早熟?など・・かなり人間臭い一面を発見しました。

さらに、晩年・・といってもまだ25歳あたりの頃、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用して、
それまでにも社会主義思想にひかれていたが、「大逆事件」の幸徳の「陳弁書」を読んで、
さらにより深く社会主義思想に入ったというから、ますます生々しい血潮を感じたのでした。


「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」

「ふるさとの訛なつかし 停車場(ば)の人ごみの中に そを聴きにゆく」

「新しきインクのにほひ 栓抜けば 餓えたる腹に沁むがかなしも」

「児を叱れば、 泣いて、寝入りぬ。 口すこしあけし寝顔にさはりてみるかな」









コメント (1)
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