昨日、9月3日も朝から良いお天気で日中は34℃まで上がったようです。
ランチの会は、築地本願寺の“酔芙蓉”が見ごろだということで、ここをお目当てとしました。
が、なんと暑さのせいか、花はわずか一輪だけ・・。
蕾はまだちらほら見えるから既に時期遅しでもないはずなのに・・拍子抜けの感じとなりました。
築地場外市場をとおり、ランチを済ませて、奥にある“波除神社”を見ました。
周囲の建物に圧迫されそうな小さな境内ながら本殿にはローソクの明かりが見え、それなりに人が
訪れているようでした。 ここ、波除神社の由来は、 “明暦の大火(1617年)後、築地の埋め立て工事が行われたが、
荒波の影響で工事は難航した。 そうしたある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、これを(1659年)、
現在地に社殿を建て祀ったところ、その後、波が収まり工事が順調に進んだといわれている” とか。
以前お正月にお参りに来たことがありましたが、大層賑わっていました。
酔芙蓉一輪 波除神社
酔芙蓉が一輪だった築地本願寺は、インド風の建築ですが、浄土真宗本願寺派(いわゆる“お西さん”)
京都西本願寺の「別院」として延宝七(1679年)に再建され、“築地御坊”と呼ばれていたそうです。
もともとは、元和三(1617年)、創建当時は浅草近くの横山町に第十二代宗主(門主)准如上人に
よって建立され、“江戸浅草御坊”と呼ばれていましたが、明暦三(1657年)のいわゆる
“振袖火事”で有名な大火で坊舎を焼失した。 幕府の区画整理のため旧地への再建が許されず、
その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。 そこで、佃島の門徒が中心になり、
本堂再建のために海を埋め立てて土地を築きその地名も“築地”と呼ばれるようになったとか。
築地本願寺
勝鬨橋を右に見て、晴海通りを横切ろうとしたその交差点に、“軍艦操練所跡”の説明版がありました。
幕末ものに良く出てくる話で、「あぁ、ここがそうだったのか・・!」なんて思いながら、説明を読んでみると、
“黒船来航後に幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、
1855年(安政2年)に長崎海軍伝習所を設置したが、その2年後に長崎に続いて、江戸の築地にあった
講武所の中にも海軍教育部門を設けることにし、1857年(安政4年)に、軍艦教授所が開かれた。
その後、長崎は閉鎖されたため、軍艦操練所は以後の幕府海軍教育の中核施設となった” そうです。
軍艦操練所跡
隅田川沿いに、聖路加方面にしばらく歩くと高く聳える “St. Luke’s Tower” のオフィスビルに出て、
佃大橋の手前まで来ました。すぐ前が“佃島”ですが、佃島は、今は“大川端リバーシティ21”と呼ばれる
大規模住宅群が立ち並んでいますが、歴史的は、その昔、“徳川家康が関東へ下降する1590年に、
摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年に元々あった
名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島して定住することとなったのが始まりという。
この島を故郷にちなんで「佃嶋」と命名した”とか。 あぁ、そうだったのか、“大阪の佃村が・・”。
佃島の住宅ビル群 渡し場跡
話のついでに、築地市場はいつ頃から?
そういえば、現役の頃、太田市場開場に絡んで、システム支援をしていた頃に知り合った築地の仲卸店(ひもの)の
システムを若手社員に担当させたことが思い出されて来ました。
そんな築地市場は、 “江戸時代から東京の食品流通を担ってきた日本橋魚河岸をはじめとする市場群が、
1923年(大正12年)9月に起きた関東大震災で壊滅したのを受け、12月、隅田川や汐留といった水運、陸運に
恵まれていた旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、
築地市場の始まりである。” そうで、1935年(昭和10年)に現在の位置に東京市中央卸売市場が開設されたのだそうです。
そういえば、築地移転の話はどうなったのでしょうか?
聖路加の横に、「あかつき公園」があり、この周辺には、記念碑的なところがたくさんあって、それらをすべて見て回ることにしました。
シーボルトの胸像がありました。 よく読んでみると、彼自身がここに住んでいたわけではなく、
“彼は、1823年、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医でしたが、
その娘「楠本イネ」が築地に産院を開業したことで、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が
設けられていたことから、ここに彼の胸像を建てた”そうです。
続いて、“慶應義塾発祥の地記念碑”がありました。 へぇ~こんなところに・・と思いました。
“慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内(江戸の築地鉄砲洲)に開いた
蘭学塾に由来し、昭和33年(1958)義塾創立百年記念事業の一つとして、この記念碑が建てられた”。
並んで“解体新書”の記念碑もありましたが、これは偶然であったらしく、その昔、 (1771年)前野良澤、
杉田玄白、中川淳庵らが集まって、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を苦労しながら解読した場所が
やはりこの地であったそうで、義塾の記念碑とともに日本洋学発祥の地記念碑として昭和34年に
日本医史学会・日本医学会・日本医師会の連名により、そこに建てられた・・というのです。
シーボルト 日本洋学発祥の地
“聖ルカ通り”を築地方向に戻ると、道路際に“浅野内匠頭邸跡”を見つけました。
浅野家上屋敷があったところで、1667年にあの“忠臣蔵”で有名な浅野長矩がここで生まれたとありました。
もともと、赤穂藩が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3年(1657)のことなんだそうです。
浅野内匠頭邸跡
ところで、聖路加は、“せいろか”ではなく正しくは“せいるか”なんだそうです。
“新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来する。” とあります。
“せいろか”の読みも定着してはいたが、近年では、関係のうちでは積極的に正式名 “せいるか” を用いているそうです。
“St. Luke” なんですね。
暑い、お昼時の一番暑い中を、2時間近く歩き回って、たくさんの記念碑などに触れ、それも割合関心のある
歴史ものでもあったので、頭の中が充満して、暑さも手伝って少々フラフラ気味となりました。
涼しいところでお茶しながら、これらを振り返りながら、さらにいろんな出来事に話は飛びながら
手近な史跡めぐり?に充実した一日でした。ちょっと盛りだくさんになってしまいました。