今日、8月12日は、君が代 が制定された日なんですね。
日本の国家 “君が代” が制定されたのは、明治26年8月12日だそうです。
これまで、各種の式典や、スポーツ関連で聞くことがありますが、卒業式とかでの斉唱に反対する教諭がいたりして
時々問題が起こったりします。
この記事は、簡単に書き終えると思っていましたら、さにあらず、結構難しい問題を含んでいたりして、
正しく表現しようとするとかなり厄介であることが分かりました。
なので、かなり端折った形で、大体のところどうだったのか・・程度に納めさせていただきました。
もともと日本には、国歌(national anthem)という概念がなく、またその必要性もあまり感じられなかったそうでした。
ところが、日本が開国した幕末の時点では、外交儀礼上欠かせないものとなっていたのです。
そのような時代に “国歌” 的な位置づけとして、1876年(明治9年)に海軍楽長が “君が代” 楽譜を上申する必要がありました。
つまり、国歌の必要性は先ず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するためのものから始まるのです。
歌詞の出典は古今和歌集巻七賀歌巻頭歌に、読人しらずとしてある、“わが君は、千代に八千代にさざれ石の・・” の
歌を改作し、“我が君” を “君が代” と直したものであるという。
明治4年、横浜駐屯の英国軍楽隊長ウイリアム・フェントンが、国家の制定を日本政府に建議した。とあり、
時の砲兵隊長大山巌(後の陸軍元帥)が一任され、先の古今和歌集から改作したものをフェントンに渡し、
作曲を依頼したとあります。 しかし、この曲は、あまりにも難しく馴染めないので、明治8年海軍軍楽隊長の発議に基づき、
明治13年、宮内庁 林廣守 の選定したものが良いということとなった。しかし、これも、ちょっと雅楽的であったために、
たまたま招聘していたドイツ人のフランッ・エッケルに洋学式の伴奏を付けてもらったのが今のものなんだそうですね。
譜面の表紙(1880年、クルト・ネット―作) 横浜妙香寺境内の記念碑 (いずれも、ウイキペディアより)
この“君が代” は、その時の天長節で初めて演奏され、その後もいろんな場で演奏されることとなり、
1893年(明治26年)8月12日には文部省が “君が代” 等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示
(制定)しました。 作詞:古歌、 作曲:林廣守として掲載されました。
また、1903年(明治36年)にドイツで行われた“世界国歌コンクール” で、“君が代” は一等を受賞したとありました。
その後、更に1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で正式に国歌に制定されました。