蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

マッサン  (bon)

2014-12-11 | 日々雑感、散策、旅行

 朝ドラ(NHK)は、山崎のウイスキー工場が完成し、いよいよ佳境に入ってきました。 
嫁さんのエリーも可愛い仕草で好評ですね。

 ご存知のように、現在、マッサンがいるのは、寿屋(サントリー)ですが、この後、マッサンこと竹鶴政孝は、
北海道余市に移り、後のニッカウイスキーを設立するのですね。
 このくだりを、再度簡単に紐解いてみながら、いつものH氏からのネット配信記事を合わせて、ここにアップしたいと思いました。

  寿屋でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝は、破格の待遇でしたが、品質にこだわり、会社方針に必ずしも
合わず、
よりスコットランドに近い気候の北海道で、よりよいウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて
北海道余市で
創業したのでした。 この時の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎という人ですが、社内では
“御主人様” と
呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれていたそうです。

 時に、1934年(昭和9年)、社名を「大日本果汁株式会社」として設立されました。 ウイスキーは製造開始から
出荷まで数年かかるため、 最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュースを製造し、
“日果リンゴジュース” として販売されたが、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったため、あまり売れなかった
そうです。

 1940年(昭和15年)にようやくウイスキーの出荷を開始しましたが、商品名 “日果” をカタカナにして、
“ニッカウヰスキー” と名づけられました。 後にこれが社名へと発展するのですね。
3年後には、マッサンは社長に就任します。

 1954年(昭和29年)には、当初の筆頭株主ほか主要株主は、ご主人様の死後の株券の散逸を防ぐために
全株式を朝日麦酒に売却し、ニッカは朝日麦酒グループ入りすることになります。そして、2001年(平成13年)、
筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社となりました。

 前置きが長すぎましたが、人物などの詳細内容について、H氏からの記事を以下に記載します。

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 「余市が生んだスコットランドの原風景」   柴崎 信三(ジャーナリスト)
                                                               Voice 2014年12月号 p121-130

 【要旨】2014年秋から放送が始まったNHK連続テレビ小説「マッサン」は、史上初の外国人ヒロインなどの話題も集め、
好調な視聴率を記録している。
このドラマは事実に基づくフィクションであり、主人公とヒロインのモデルは、
ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏とその妻・リタである。 本記事は、竹鶴夫妻が移り住み、国産本格
モルトウイスキーづくりの拠点とした北海道・
余市を訪ね、政孝氏(マッサン)のスコットランド留学からの二人の生涯を辿る。
余市とスコットランドという遠く離れた地が、その風土とウイスキー
という共通項でつながる。また、それは竹鶴夫妻の
異文化を乗り越えた絆と
も同期するものだ。
筆者は、日本経済新聞社文化部長、論説委員などを務め
たジャーナリスト。

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  英国からの独立か帰属かをめぐって行なわれた先のスコットランドの住民投票は、あらためて国家が民族や風土との
深い関わりのなかにあることをわ
れわれに問いかけた。

  1世紀近く前、日本から、ウイスキーという異郷の酒の蒸溜技術を学ぶために一人の男が、遠くスコットランドに向けて
旅立つ。そこで結ばれた英国
人女性を伴って帰国した男は、北海道余市の地を選んで生産の拠点とし、
い試行錯誤を経て、英国と同じ製法で本格モルトウイスキーを初めてこの国で造り上げた。「キルン塔」と呼ばれる
深紅の三角屋根が軒を連ねた「ニッ
カウヰスキー余市蒸溜所」のエキゾチックな風景は、スコットランドの風土のなかに
生まれたウイスキーが遠い異郷の北辺の地に種を蒔いて花開き、も
う一つの故郷を生んだ証しにほかならない。

  北海道西南部、日本海に突き出した積丹半島の付け根にある余市。人口およそ2万人を抱えた小さな町である。
寒冷であっても湿潤な気候は、モルト
ウイスキーの故郷であるスコットランドのハイランド地方とよく似ている。
マッサンこと竹鶴政孝が、留学先のスコットランドで出会った妻、リタを伴ってここに本格ウイスキー造りの城を築いた。
ウイスキーを通してその余市が
スコットランドとの縁を結び、異文化の結晶ともいうべきモルトウイスキーをこの国に
もたらしたのは世界にも例がない。明治維新以来、「脱亜入欧」をスローガンに日本が欧米列強に追いつこうという時代に、一人の日本人が異郷に結んだ夢は、美しい異国的な風景となってこの地に息づいている。

  大阪の摂津酒造に勤める24歳の技術者、竹鶴政孝が日本を発ち、海路米国経由で英国スコットランドのグラスゴーに
着いたのは1918(大正7)年の暮
れである。留学は社命だったが、ウイスキー造りを学びたいと自ら強く望んだ結果で
あった。特段の紹介状や伝手はなかった。ウイスキーの蒸溜技術書
を著した英国人学者を訪ねて教えを請い、
地図を片手に現地の蒸溜所を探り
当てて技術者に「実習」を頼み込む。

  東洋の果てからやってきた一青年がこの地に無難に迎えられたのは、それなりの時代背景がある。日英同盟の
下で両国の親密な関係が結ばれてすでに
16年が経過していた。5年後には同盟は失効されるが、日本はそれまで
この
国から多くのお雇い外国人を迎えて近代的な制度や技術の指南を仰いできた。竹鶴の留学の拠点となった
グラスゴー大学には工部大学校(現東京大学工学
部)で教鞭を執ったことのあるヘンリー・ダイアーがいた。
日本における西
洋式技術教育の確立と、日英関係に貢献した英国人技師で、その存在も竹鶴が地元との人脈をつなぐ
大きな力となったようだ。

  ウイスキーの語源はゲール語で「命の水」を意味する。るつぼに入れた大麦などの発酵液がたまたま強い
アルコール度をもつ液体となって蒸溜酒が生
み出される技術は、古くケルト文明にまで遡るともいわれる。
それがスコッ
トランドに伝えられて、文字どおりの「地酒」として独特の生産技術と品質を育んだ。かつて独立王国で
あったスコットランドが18世紀初めに大英帝国
に組み込まれて以降、この地域のウイスキーに夥しい密造や密輸が
広がった
のは、この酒がスコットランドの民族と文化を象徴する誇りであったことの裏返しであったろう。

  異郷の経験を重ねるなかで、竹鶴がのちに余市にモルトウイスキーの《城》を成すことに踏み切らせたのが、
のちに結ばれた妻、ジェシー・ロバータ・
カウン、リタの愛称をもつ地元スコットランドの女性との出会いであった。
リタは竹鶴が学んだグラスゴー大学で出会った医学生エラの姉である。グラスゴー近郊のカーカンテロフの大きな
医院の娘で、弟に柔道を習わせようと、
竹鶴を家庭へ招いたのをきっかけに家族ぐるみの付き合いになった。 

 かつて第一次大戦に出征した婚約者を失っているリタは、心のなかに寄る辺のない寂しさを抱えていた。
目の前に現れたこの東洋の青年の好もしい率
直さとウイスキーに懸ける真摯な情熱が次第にそれを埋めていき、
二人は将
来を誓う関係になっていった。下宿人として住み着いていた竹鶴の結婚申し込みに対し、リタのなかには
ある決意が生まれていた。「あなたの夢は、日
本で本物のウイスキーを造ることなのでしょう。私はそのお手伝いがしたいの」

  リタとともに竹鶴が祖国へ戻ったのは1920(大正9)年の11月である。しかし、碧眼の妻を伴って摂津酒造に復帰した
洋行帰りの竹鶴を待っていたの
は、本格ウイスキーを受け入れる余力のない日本の市場の現実だった。
せっ
かく培ってきた本格ウイスキーを手がける場面は巡ってこない。途方に暮れる竹鶴に手を差し伸べたのは、
のちにライバルとなるサントリーの前身の寿
屋の創案者、鳥井信治郎である。

  蒸溜所の建設地として、鳥井が望んだ「消費地に近いこと」などから竹鶴は京都・山崎を選んで建設に着手した。
ここでようやく日本初の本格ウイス
キー「サントリーウイスキー白札」を造り上げる。しかし、このサントリーでの
ウイスキー
造りは新設したビール工場長との兼務などもあって、必ずしも竹鶴を満足させなかった。かくして、
リタと共に温め続けてきた
理想とする蒸溜所を、自力で新たに北海道の余市に建設するという計画が具体化していく。

 スコットランドで深めた「風の味のするウイスキーをつくらなければならない」という思いが、この地に向かわせた。
若い日にリタと出会ったスコッ
トランドと重なる余市の自然や風土は「北はウイスキーの故郷である」という確信を
竹鶴のなかに育て、二人の新しい故郷がそこに生まれていくのである。

  余市で竹鶴が「大日本果汁株式会社」を立ち上げたのは、日本が軍国主義の坂道を上り始めた
1934(昭和9)年のことである。 石造りの蒸溜所に竹鶴
が設置したポットスチルと呼ばれる蒸溜装置は、
かつてロングモーン蒸溜所
で実習したときのものをモデルに苦心して再現した。余市の石炭直火蒸溜は、
いまはスコットランドにも見られない伝統的な設備である。

  ニッカ余市工場(ニッカHPより)
              


  ニッカとして初めてのウイスキーが余市から生まれたのは、開戦前夜の1940(昭和15)年のことである。
日本に帰化したリタは、起業に奔走する夫を支
えて内助に尽くす傍ら、日本語と日本の生活習慣に馴染んで「日本人」に
ろうと心に決めていた。関西では英語教師を務め、養子に迎えた子供や孫たちと交わりながら家庭を守った。

 日本が米英と戦端を開いて祖国が敵国となってからリタは、世間の外国人排斥の空気に加えて特高警察の監視を
受ける。しかしリタは日本にとどまり、
時折は孫たちと余市浜の海岸へ赴き、故郷のスコットランドの海岸に似た風景を
眺めながら異郷の孤独な心を癒やした。

  余市を拠点にしたニッカウヰスキーは戦後、転機を迎えた。日本の復興とともに消費が広がり、日本の消費者にも
嗜好の多様化が進んできたからであ
る。竹鶴にとって、次はトウモロコシなど多様な原料をブレンドして造る
レーンウイスキーの製造が、モルトウイスキーの先に思い描いてきたもう一つの目標であった。モルトウイスキーに
グレーンウイスキーをブレンドした、
新しい商品が市場を大きく広げることになったのである。

  いま、余市蒸溜所を望む丘の上の墓に二人は眠る。リタの没後19年を経て竹鶴は85歳の生涯を閉じた。

 コメント: 竹鶴夫妻の物語から改めて感じさせられるのは、文化を生むためには「場所」と「人の心」が、ベストな
マッチングをしブレンドされなけ
ればならない、ということ。おそらくリタの“覚悟”が、そしてマッサンの“信念” が
なければ、日本初の本格ウイスキーも、余市の異国情緒あふれる
風景も生まれなかった。
心、それも “強い” 心が、たくさんの人の心をつか
むものを作りだすのだ。
                                          Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

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