蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

高野長英  (bon)

2015-10-30 | 日々雑感、散策、旅行

 名前を聞いた人も多いのでは・・と思います。 江戸時代後期の医者、蘭学者ですね。
当時世界の流れを受けて日本でも開国に向けた活動が進む中、学問に優れた能力を発揮する傍ら、
何かと話題の多い人生を送った人と思われます。
1850年の10月30日(旧暦)に46歳の若さで自刀したとあります。

 高野長英(たかのちょうえい)は、1804年に岩手県水沢に生まれますが、養父が江戸で杉田玄白に
蘭法医学を学んだことから、家には蘭書が多く、幼いころから新しい学問に興味を持ち、16歳で早や
江戸に出て蘭学、医術を学びました。 10年後には、麹町に町医者として蘭学塾を開業し、まもなく
渡辺崋山と知り合い多くの蘭学書の翻訳を著しています。

       高野長英
          (ウイキペディアより)
 

 1839年(天保10年)、長英35歳の時、蛮社の獄(言論弾圧事件)が勃発し、崋山らとともに
モリソン号事件、幕府の鎖国政策批判により捕えられて獄中生活を送ります。 無期刑の判決が下って、
伝馬町牢屋敷に収監されますが、牢内では服役者の医療に努めたり、劣悪な牢内環境の改善などを
訴えたり、親分肌のところがあり牢名主として祭り上げられるなどしたといいます。 
1844年、牢屋敷の火災に乗じて脱獄するのですが、この火災は、彼が牢で働いていた者をそそのかして
放火させたとの説が有力であるといいます。 で、脱獄の際、“三日以内に戻ってくれば罪一等減じるが
戻ってこなければ死罪に処す” との警告を牢役人から聞いていたが、長英はこれを無視し、再び牢に
戻ってくることは無かったのです。 硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木
(現さいたま市)、江戸、宇和島など転々と同志を頼り匿われ、その間兵学書や蘭学書の翻訳を行い、
宇和島藩では兵備の洋式化に従事したり成果を上げています。

 1850年10月30日、江戸の青山百人町(現在の南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、
町奉行所に踏み込まれて捕縛されました。その時、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた
時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する途中に、短刀で喉をついて自害したと
されています。

 写真(絵)で見ると、学者そのものの風体ですが、かなりの活動家のようでもあったのですね。
長英自身、才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったそうですが、“当時の
蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。” とあります。

         高野長英記念館(岩手県奥州市)
           (記念館HPより)
 

 徳川幕府成立から200年以上が経過した江戸末期近く、幕藩体制の歪みが顕在化する中、欧米では
産業革命が進展し、その有力な市場兼補給地として極東が重要視され、日本近海には異国船の来航が
活発化し始めた・・そんな時代背景にあって、日本国内では、学者などの着眼から大きく変貌しようと
波打っていたのでした。
 高野長英も、そんな時代のうねりの中の一人であり、いわば日本の夜明けのリーダともいえるので
しょう。 彼の没後わずか4年後に、ペリーが浦賀沖に来るのです。

 

 

 

 

 

 

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