甲子園も リオ も、無事終わりました。
リオの閉会式では、新しい技術を駆使した光の芸術、次開催地・東京も
演出され華々しい終幕でした。
折しも、台風9号が上陸し、関東にも強い雨を降らし各地で被害がでました。
夏休み最後の計画を楽しみにしていた子供たちにも、被害を与えました。
自宅ベランダでは、大鉢の花木たちが転がっていました。
“破戒”や“夜明け前”で超有名な「藤村」ですから、今更・・という感じもありますが、
昨日8月22日が命日ということもあって、ここに取り上げてみました。 ネットで、いろいろと
検索してみますと、あまり知られていない(私が知らないだけかも)ことがらもあったりして、
それなりに新鮮な感じを受けています。
重複するかもしれませんが、以下にかいつまんでご紹介してみます。
島崎藤村
(ウイキペディアより)
島崎 藤村は、1872年(明治5年)、信州木曽の中山道馬篭(現在中津川市)に生まれた、明治、
大正、昭和 3代にわたり活躍した詩人、小説家で、本名は島崎春樹。 幼いころから、父(正樹)
より、「孝経」や「論語」を学び、上京後は、銀座の泰明小学校に通い、さらに三田英学校、
共立学校などの進学予備校を経て 明治学院に入り、西洋文学を読みふけり、また、芭蕉や西行
などの古典書物も読み漁るなど、この頃にすでに文学的な素養が形成されたのでしょうか。
明治学院第1期卒業生で、校歌も作詞しています。 相前後して、父親(正樹)が郷里にて牢死
することになるのですが、藤村、晩年の長編歴史小説の大作「夜明け前」の幕末から維新に至る
激動の時代を信念で生きる主人公青山半蔵は、父正樹がモデルとなっているそうです。
藤村、20歳で明治女学校英語教師となり、翌年「文学界」に参加し、北村透谷らと明治期の
浪漫主義の月刊文芸雑誌『文学界』を創刊します。 その後、4~5年経って、詩作を始め、
『若菜集』を発表(明治30年)し、続いて『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集を発表して、
明治浪漫主義の開花の先端となるのです。今、なお親しい『椰子の実』、『千曲川旅情の歌』は、
『落梅集』に収められています。
いつだったか、伊良湖海岸の浜辺に立ったときに、この歌を歌った記憶があります。 また、
千曲川・・は、昔、習いましたね。
伊良湖海岸
(ウイキペディアより)
「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
「千曲川旅情の歌」 -落梅集より-
昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく) 明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過ぎし世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
27歳(明治32年)で、明治女学校卒業生と結婚しますが、この頃より詩から散文へと創作法を
転回し、写生文「千曲川のスケッチ」を経て、7年後の明治39年には『破戒』を自費出版し、
文壇から自然主義文学として絶賛を博しますが、この頃3人の娘が栄養失調により相次いで没する
不幸に直面しています。しかし、創作活動は継続され、次々と発表してゆきますが、妻が4女を
出産して間もなく他界してしまいます。 手伝いに来ていた、姪と愛人関係になり、後に、
『新生』で、自らの近親姦を告白しているのです。
1929年(昭和4年)4月から1935年昭和10年)10月まで 『夜明け前』が「中央公論」に連載され、
この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられたとのことです。
また日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めたとあります。
1943年(昭和18年)8月22日、脳溢血により、大磯の自宅で満71歳の人生を閉じたのでした。
最期の言葉は「涼しい風だね」であったとありました。