いまさら何を・・という感じも否めませんが、太平洋戦争がどのようにして開戦に至っ
たか、改めて振り返って見ると、今一度整理して見たくてネットを頼りに経緯を追って
みました。もとより、これらのことをよくご存知の方々には、もどかしさを招き、ご迷惑
のことと存じますがお許しください。
日清・日露戦争後、遼東半島を拠点として満州地域の権益を確保し、経済的に疲弊して
いた日本の社会は、満州地域に進出することに活路を見出すとともに、“満州”に対して
好感情の地域であったようです。
その頃中国では、西太后も崩御(1908年)し、ラストエンペラー「溥儀」が2歳にして
第12代清朝皇帝に就きますが、6歳の時、1911年に辛亥革命(民主化運動)が起こり中華民
国の誕生となるのです。2000年にわたる君主制が崩壊するのです。
その頃、ヨーロッパでは中央同盟国(ドイツ、オーストリアら)と連合国(仏、英、露、
米、伊、中ら)による第1次世界大戦(1914~18年)が起こり、日本は連合国軍側で参戦し、
世界の列強の一員となるなど順風満帆の勢いであったのでしょう。満州での関東軍はます
ます勢力を拡大し、1919年には独立するのです。
満州国(ネット画像より)
中国との敵対関係は続き、とうとう1928年、柳条湖事件(南満州鉄道の線路爆破により、
中国要人張作霖を殺害)が勃発し、事態は一気に拡大し満州事変(1931~2年)へと発展し、
中国との武力紛争は一段と激しさを増して行くのです。 関東軍は独断で、先の皇帝、愛
新覚羅溥儀を担ぎ出し、傀儡政権の満州国を建国(1932年)するのですね。 中国側との
交渉を始めるべく政権の座に就いた犬養毅総理大臣は、数ヶ月で海軍将校の手で暗殺され
てしまうのです(5.15事件)。
満州国を建国してますます力を付けた日本に対して世界の目は厳しく非難し、とりわけ
アメリカからは強い反発を受けるようになり、この頃、中国側との小競り合いから、1937年、
いわゆる盧溝橋事件をきっかけとして、宣戦布告なしで4年間も日中間の戦争となるのです
(日支事変)。
中国政策に行き詰まった広田政権は総辞職に追い込まれ、西園寺公望元老の勧めで近衛
文麿総理大臣が誕生します。公家出身の総理は、政界における貴公子などと好評判で、
一般民衆にも受けが良かったそうです。 戦果も好調で世の中イケイケどんどんのような
感じではなかったと思われます。
国民はこぞって戦争をむしろ喜びのように捉えていたのではないでしょうか。 蒋介石
率いる中国との全面戦争の様相を呈し、近衛―蒋介石和平交渉も決裂し、国内的には経済
の戦時体制が導入され、大量の赤字国債が発行されるなど緊迫し、近衛政権は失脚する
羽目になるのです(1939年総辞職)。
しかし、新政権となった平沼内閣には、近衛政権の7大臣が留任するなど、近衛色が強く、
さらには、平沼の念願であった、「日独伊防共協定(1937年締結)」をさらに発展させる
思惑が、突如ドイツが「独ソ不可侵条約」を締結したため、先行きの目途が立たず、結果、
総辞職してしまいます。 直後、ドイツはポーランドに侵攻し、これを受けてイギリスや
フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まるのです(1939年)。
ヨーロッパ全体を巻き込んだ戦争により、物資輸入の激減、物価の急騰などによって
日中戦争下で、日本は大きな打撃を受けることとなりました。
新党発足を画策していた近衛は、1940年に第二次近衛内閣を発足させ、これらの打開策
として、北部仏印(現在のベトナム北部)へ進駐するのです。 この年、軍事同盟である
「日独伊三国同盟」を締結しますが、いわゆる全体主義、軍国主義を掲げるこの同盟は、
イギリス、アメリカを中心とする陣営に対する明確な挑戦と受け止められ、鉄鋼などの
輸出が禁止され日本の工業や軍備が抑制されてしまうのです。
欧米からの物資輸入がほぼ絶たれた近衛内閣は、1941年7月、アメリカやイギリスなど
との開戦覚悟で南部仏印(現在のベトナム南部)へ進駐を決定します。 しかしこれが、
かえってアメリカ、イギリス、オランダを刺激し、日本の対外資産の差し押さえ、ガソ
リン・石油の日本への輸出禁止となるのです。日本はいよいよ資源供給を絶たれ、早期
開戦を訴える声が軍の内外から上がることになります。
満州時代の勢いと活気は、ここに来て追い詰められた情勢となるのですね。
軍部を中心に開戦すべしとの声が高まるものの、政府および軍首脳には、資源大国で
あり、工業生産力が日本よりはるかに上回る(GDP14倍、石油産出量700倍)アメリカと
戦って勝てる見込みはないという意見は根強くありました。 政府はアメリカと交渉に
よって和解することを進め、「日米諒解案」を巡り懸命に対応したとあり、近衛―ルーズ
ベルト会談にまで持ち込むのですが、結局は和解策は挫折し、近衛内閣は総辞職(1941年
10月)し、代わって東条英機内閣となります。
東条英機新内閣(初閣議後)
(ウイキペディアより)
アメリカとの交渉に対する不満や、資源供給が絶たれた焦りから、戦争開始へと大き
く舵が切られます。 11月には、決定的ともいえる、アメリカ国務長官コーデル・ハル
によるいわゆる「ハル・ノート」と呼ばれる覚書が手渡されるのです。
覚書の内容は、1930年代からの日本の大陸における政策・軍事行動の破棄を求めるもの
で、つまりは10年前の満州事変の前に戻せという主張に近く、到底受け入れられない内容
であり、即時開催された「大本営政府連絡会議」で、ハル・ノート受け入れ拒否が決定され、
開戦の方針が決定(11月27日)されたのです。
12月1日の御前会議においてアメリカ、イギリスに対し開戦することが最終決定された
のです。
このように見てきますと、日露戦争後の日本の経済活動を満州に求める形で大いに発展
する一方で、関東軍による軍部が独走し、ひいては、ヨーロッパ大陸における世界大戦、
日独伊同盟などを経て、一種のポピュリズムとも見なせる国民の熱狂的?なまでの盛り
上がりを抑えきれない、というか、これに後押しされる形で、後戻りできない状態に追い
込まれて行くという感じですね。
政権も頻繁に変わり、あげく、政治と軍部が遊離しむしろ軍部を支持するポピュリズム
により苦悩の道を登り詰め、この間何度も御前会議が開かれ、次第に開戦に向かって突き
進んだ(進まざるを得なかった)事が読み取れます。
個々の具体的な事象を踏まえると、その足取りなどが迫力を持って理解できそうですが、
このように端折ってしまうと、その間の熱い流れのような状況が飛んで、無機質になって
しまいましたが、やはり映画などに創り上げないと真柏力にかけてしまいます。
いよいよ、開戦の方針が定まる前日の11月26日午前6時、千島列島択捉島の単冠湾から、
空母6隻、航空機350機以上、戦艦2隻、重巡洋艦2隻を中心とする日本海軍空母機動部隊が
ハワイ真珠湾に向け密かに出発したのです。
この時は、日米交渉が妥結すれば途中で引き返すことになっていたようですが、東京か
ら届いた連絡は「交渉決裂=ニイタカヤマノボレイチニハチマル」だったのです。
そのまま真珠湾へと向かい、1941(昭和16)年12月8日午前8時、日本海軍第一次攻撃隊
183機はハワイ・オアフ島の真珠湾に浮かぶアメリカ太平洋艦隊奇襲に成功し、3年9カ月
に及ぶ太平洋戦争が始まったのでした。
真珠湾における戦艦アリゾナ
(ウイキペディアより)
そしてこの12月8日は、もう一つの大事件が起きていたのでした。ヨーロッパ戦線で
ドイツ軍は、ソ連軍の猛反撃と寒さの中で、モスクワを目前にしていながら一歩も進む
ことができなくなり、ヒトラーは全作戦の停止を命じたのです。日本が作戦の前提として
いたドイツ軍の勝利は消え去ろうとしていたのです。