この3/1にBSで放送された映画(完全版)を録画して観ました。
昭和43年(1968年)、日活から配給上映された、原作木本正次氏(毎日新聞元編
集委員)、企画・制作三船プロ(ダクション)、石原プロ(モーション)共同制作
の映画で、当時大ヒットし大きな話題となり、私も映画に感動した記憶があります。
しかし、断片的な映像シーンなどが記憶の隅にあるだけで、ほとんどを忘れてし
まっていましたので今回改めて、黒部ダム建設の必要性そして建設工事に当たって
の難しさ、困難性など映像の奥にある当時の背景を思うとき、なお一層の感動を覚
えたのでした。
黒部ダム
(ウイキペディアより)
当時。関西地域の電力需要に対する強い要望に応えるため、大規模発電所の建設
には黒部ダムの建設しかないとの決意で、関西電力(関電)の資本金の5倍もの大
規模工事が決断されたのでした。 1956年(昭和31年)着工、171人の殉職者を出し
7年の歳月をかけて、1961年1月に送電が開始 されたのでした。
全長5.4kmのトンネルのうちわずか約83mの破砕帯を突破するのに何と7か月を要し、
文字通り死闘を繰り返した難工事であった、その部分を中心に描かれているのです。
三船敏郎は、関西電力の担当責任者で、石原裕次郎は、難工事区間の下請けの責
任者でフォッサマグナなど地質に詳しい知識を持つ技術者を演じています。当時の
関電太田垣社長、芦原常務には、滝沢修、志村喬、黑四所長には佐野周二、熊谷組
専務には柳永二郎、などなど名だたる俳優が勢ぞろいですが、ほとんど他界された
方々です。映画の始まりでの、出演者の紹介も、主役,脇役などの順ではなく、五
十音別に大勢の名前が並ぶテロップが流れていました。
(ネット画像より)
映画の最大難工事の中心として描かれた破砕帯の突破部分の撮影は、メインのセ
ットが作られている愛知県豊川市の熊谷組工場内で行われていたそうですが、トン
ネルの切羽部分から大量の水の圧力に押し流されるシーンは、実際コンクリートで
作られた切羽が、水量が多すぎたためにどっと崩れ流れ、俳優,スタッフ共々必死
で逃げなければならなくなり、本気で逃げる場面の撮影に成功したとあり、撮影的
には不幸中の幸いであったようですが、実際には、裕次郎はじめ多くのけが人が出
たそうです。
難敵、破砕帯は、トンネルだけではなかったそうです。仲津真二氏(東京電力顧
問)の『黒部の太陽』評の中に、この映画の熊井哲監督が自身の著作の中で『この
作品は破砕帯を突き破って黒四ダムを完成させる話だが、思いがけないところに大
きな破砕帯があったわけだ。』と述べられているように、当時の映画界における五
社協定という人為的な破砕帯を突破しなければならないことだったそうですから、
制作にあたっては、2つの破砕帯をクリアすることになったのですね。
このようなことを思いますと黒部ダムそしてその映画がますます、信念に裏付け
られた技術と忍耐・努力が結晶した素晴らしい作品として輝いているように感じま
した。
(ネット画像より)
今から、半世紀以上前になりますが、私は何人かのグループで、入社2年目の夏
に、まだアルペンルートは出来ていなかった頃に黒部ダムに行ったのでした。長野
県大町から扇沢、トロリーバスで黒部ダムへ。ダムを渡って、一ノ越から立山雄山
に登り。そこから剣岳手前で、豪雨に会い、千人谷小屋へ。 翌日下山に向かい、
阿曽原あたりから、関電のトロッコトンネルの中を、ひざ下まで水につかりながら
4㎞ほど歩いた覚えがあり、ようやく欅平にでてホッとしたのでした。
映画に写る際立った山々、峡谷の姿、暗いトンネルを見るにつけ、状況は全く違
いますが、当時も、この黒部ダムの凄さを感じていたことが想い出されてくるので
した。
(以下の youtubeの音声が途切れますが、その際にはカーソルを進めてください。)
プロジェクトX〜挑戦者たち〜「シリーズ黒四ダム 秘境へのトンネル 地底の戦士たち」