蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

与謝野鉄幹  (bon)

2021-03-27 | 日々雑感、散策、旅行

 与謝野鉄幹は、昭和10年の昨日、3月26日に、62歳で他界しました。

 妻の与謝野晶子が有名で、どちらかといえばその陰にいるような感じでもあり、
詩人であるというほか、今一つ近づき難い感じがありました。 命日に因んで少し
調べてみました。

 与謝野鉄幹(本名、寛=ひろし)は、1873年(明治6年)に京都岡崎町で、僧侶
の父と商家の母の間に四男として生まれます。10代のころ、お寺の養子に入り仏の
道を進みますが文学に興味を持ち雑誌編集なども始めたとあります。

       与謝野鉄幹(若い頃)
         (ウイキペディアより

 その後、女学校の国語の教師を務めますが、女生徒と問題を起こし退職しますが、
また次の女子高でも女生徒と同棲し一子を儲けています。  この頃、鉄幹の号を
使用するようになり、上京して落合直文の門に入り,短歌論を発表するなどの活動
を展開しています。明治書院の編集長となる傍ら、跡見女学校(跡見学園)で教鞭
をとり、この頃、歌集『東西南北』、『天地玄黄』を世に出しています。 1899年
(明治32年)には東京新詩社を創立し、翌年には『明星』を創刊しました。

 北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を
果たすのです。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との
不倫が問題視されながら、晶子の歌集『みだれ髪』作成をプロデュースし絶頂期に
入ります。 そして、二度目の妻と離別し晶子と再婚して六男六女の子を設けます。

 1908年(明治41年)、『明星』は第100号をもって廃刊となり、その後の鉄幹は
極度の不振に陥るのです。晶子の計らいで欧州旅行するも、創作活動が盛んとなっ
たのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。 再起を賭けた労作も失敗する
など、栄光に包まれる妻の陰で苦悩に喘いでいたようです。  そんな時、第12回
総選挙(1915年)に地元京都から出馬するも落選し、4年後、慶應義塾大学文学部
教授に就任しています。 大学には13年間在任し、佐藤春夫、堀口大学、三木露風
ほかを育てたとあります。

         文芸雑誌『明星』第10号
         (ウイキペディアより

 1932年(昭和7年)には、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日
新聞社による歌詞公募に応じ一等入選します。その年の、センバツ高校野球大会の
入場行進曲に採用されています。(ちょうど今、センバツ高校野球たけなわですが、
今年の入場行進曲は「パプリカ」でした。)

 有名な歌人 与謝野鉄幹は、幼い頃仏門に入り、のち教鞭をとりながら、私生活
面ではかなり自由奔放なところがありましたが、晶子とめぐり逢うことで、後年は
才女で活動的な妻に支えられ、反面苦渋の中にあったかもしれませんが、その人生
は成就したと思えるのではないでしょうか。
 ま、幸せな人でした。 元大臣の与謝野馨は、鉄幹、晶子の孫にあたります。

 与謝野晶子については、当ブログ2015.5.29に記事アップしています。
https://blog.goo.ne.jp/romantics2010/e/7525d64e6a102b798d8316d2f01a555c

 

 私らが昔よく歌った懐かしい歌、『人を恋うる唄』(作詞:与謝野鉄幹)は明治
30年頃の作のようです。

人を恋ふる唄

 

爆弾三勇士〈軍歌・戦時歌謡〉

 

 

 

 

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