今日は、東日本大震災から丁度10年となります。76年前の昨日は東京大空襲があった日でした。
東京大空襲の犠牲者で身元不明の人々は、関東大震災の身元不明の遭難者と共に東京都慰霊堂
(江戸東京博物館近く、横網町公園内)に合祀され、昨日3/10には大法要が営まれています。
10年前のこの日、被災地の皆様には想像を絶する地獄の恐怖と困難に遭遇された
のでした。そして今なお避難されている方々は 4万人を超え、2500名以上の行方不
明の方々がおられる大災害でした。福島原発では、多くの帰郷できない人たち、農
林水産業など産業復興の遅延、行き場のない汚染水タンクの山・・などなど解決困
難な課題が山積しているのです。
奇跡の一本松(モニュメント)
(ウイキペディアより)
埼玉県にいる私は、それでもその日帰宅困難者の一人となりました。
10年前、2011.3.11の翌日の当ブログをそのままコピペしました。
『 先ほど、13時前ころに 6時間かけて帰宅しました。昨日は、熊谷の3つ大宮寄り
の北鴻巣というところに行っていました。 その時、突然・・震度2かな? いや
3 いや4・・わぁ~という感じで 5分も続いたかと思うほど長かった。 前後左
右にこれでもかこれでもか! やっとのことで、おさまったが、余震がひっきりな
し・・。
駐車場の車の(よその人の)ラジオで宮城沖地震と分かった。北の空はどす黒く
垂れ下がり異様な光景が、これは大変!どうしよう・・。 携帯はまったく繋がら
ない。発信してもすぐにNG表示。 とにかく帰ろう・・。きっと電車は止まって
いるだろうが、動き出す最初に間に合わそう・・と駅まで歩いた。 もう2~30人
の人が集まっていた。立って待つこと3時間。その間にもかなりな余震が次々と来
ていた。携帯の電池が頼りないのでワンセグはあきらめた。ほとんど情報から隔離
されている。寒いし、食べるところや寝るところ・・・。駅の周りには、ホテルは
もちろんコンビニも飲食店も何もない。困った!
そうこうしているうちに、JR関係交通はすべて運行を中止することとした!と
マイクでアナウンス。警察が先ほどからうろうろしていた。 警察官の一人から、
これから、避難所として近くの小学校を交渉しているが希望者はもう少し待ってく
ださい。 小一時間して、先導してくれた。寒い、停電で真っ暗な道を肩をすぼめ
てぞろぞろと見知らぬ者同士がついて歩いた。 5分ほどで小学校の体育館に案内
された。パイプ椅子がずらりと並べてくれていた。全員で6~70名くらいいただ
ろうか?
20時頃に災害用食べ物クラッカーが来た。 発発のエンジン音は明りのためだ。
毛布がきた。これは、女性子供が優先だそうだ。 21時半頃災害用乾燥ごはんが来
た。水を入れて1時間待つ。そうしているところに毛布が来た。いままで割とお行儀
よく並んでいたが、かなりの寒さに毛布に殺到した。しかし、全員にあたった。
薄暗い寒い空気の中で、先ほどのご飯をやってみた。 冷たい。芯がある感じ。
でも、五目ごはんらしい味はしている。半分くらい食べました。
もう冷えてしまったけど買っておいたペットボトルのお茶。 あたりは、エンジン
の音だけ。 ぼんやりした人影はあまり動かない。オーバーコートの上から毛布を
かけても、体が冷え切ってしまったのか寒さが取れない。ほとんど眠れずに夜が明
けてきた。
6時半に駅に来て、シャッターが開くのを待ちかねて、停車していた電車の中へ。
中は暖房してくれていた。ありがたい。 大宮までの所要時分は平常時は30分弱の
ところが 4時間近くかかっている。 しかし、少しでも動いてくれている・・頼み
があった。
帰宅後すぐに、沸かしてくれていた風呂につかり、この有難味をかみしめて、よ
うやくごはんにありついた。 家の中は、置物などが飛んで壊れたり、食器戸棚の
中で食器が乱れていた。』
テレビの映像を見て、あまりの光景に目を疑いました。
東日本大震災慰霊オンライン法要