突然「シベリア抑留展示コーナー」がありました。
当時の服。着てたのはどんな人だったのかな。。。
もちろん生きて戻ってこられた人が持ち帰ったのでしょうw
「男装の麗人」川島芳子のコーナーもありました。清朝の王女様です。なぜここに
展示されているのか、、、話は長くなりますが。。。
松本藩士の川島良顕の長男・川島浪速(生まれたときに、父親が長州征討のために
大阪に出陣中だったからそんな名前になったそうです。いかがなものかとw)は、
明治時代になってありがちですが、東京外国語学校に入学して中国語を学びました。
エリートですから、日清戦争になると陸軍通訳官として従軍。義和団の乱でも派遣軍に
加わり、まあボロボロになった中国の支配階級となって、北京警務学堂の学長になります。
そこで清朝の皇族と近づきになり、辛亥革命で清朝が滅亡すると、粛親王を北京から
旅順に脱出させたりするのです。それで粛親王と義兄弟の契りを交わし、その王女を
養女としてもらい受け、この写真の川島芳子と名付けるのでした。
芳子さんは最初東京に住んでいましたが、一家は松本の浅間温泉に移住したので、
彼女は松本高等女学校に通学します。自宅からは馬に乗って通学したり、陸軍の少尉と
恋仲になったりしたんだって^^;
しかし17歳の時にピストル自殺未遂。そのあと「女を捨てる」と宣言して断髪、男装を
するようになりました。それが新聞に載って話題になり、「男装の麗人」と呼ばれる
ようになってアイドルのようにファンが増えたとか。
女を捨てる宣言から2年後、蒙古族将軍の次男と結婚するが3年ほどで離婚。上海に
渡って駐在武官の田中少佐と交際。そいつの諜報活動に関わることになったとか。
つまりスパイになったそうなのです。しかしそれのかなりの部分が謎のまま。
芳子さんは「東洋のマタ・ハリ」とか「満州のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれて
マスコミの寵児となり、ラジオ番組に出演してレコードも出したのです。しかし
関東軍の満州国での悪事や日本の対中政策を批判したりして(まっとうだったのですね)
軍部に監視されたりしました。
天津が日本軍に占領されると、当地で料亭の女将をしたとか。李香蘭とも仲がよかった
そうです。(李香蘭って、10年ほど前まで生きてたんですね!)
戦後、芳子さんは「国賊」「売国奴」として中国国民党軍に逮捕されて銃殺になり
ました。実に波乱に満ちた人生を送ったのですね。
注目を浴びたにもかかわらず謎も多い生涯でしたから、さまざまなメディアで
取り上げられ、ドラマや映画になったり本になったり。。。
さて最後に「工女宿 宝来屋」の建物です。江戸時代後期、野麦街道に建てられた
宿屋です。その街道は飛騨高山と松本を結んでいるので、諏訪や岡谷の製糸工場に
向かう工女たちが宿泊したのです。
なかなか大きな屋敷ですが、多い時には100人の工女が泊ったそうです。そんなときは
すんごくうるさかったとか。大教室の女子学生って感じか、いや修学旅行の女子高生
ってところでしょうね。
みんな一泊して翌日の朝4時には出発したそうです。そうすると握り飯を持たせ
なくてはならないので、宿屋の人はその準備に寝る暇もなかったとか。
さすがに風呂なんかは入らなかっただろうな。するとすんごい女臭かったと思われw
屋根裏部屋。ざっと見て回って、ここで100人ゆったらぎゅう詰めでしょうーw
この映画、むかし見て泣けましたねえ。。。 大竹しのぶ、似てないなwww
う、立派な部屋もありました。他ではぎゅう詰め、ここには偉い人がゆったり
だったのでしょう。。。
牛小屋もありましたw
ボンビーとはいえ、まだうら若い娘を働きに出すのは親も子も辛かったろう。。。