さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

下田開国博物館

2023年11月17日 | 関東甲信越


いわゆる「黒船」の模型がありました。当時の日本船にはペンキやタールを塗る
技術がありませんでしたので、木の色でない黒いやつが来たのが印象的だったので
しょう。さらに蒸気船で大きな外輪が回っているのにも驚いたでしょうねェ。
あ、それと江戸時代ずっと、幕府は帆をひとつしか認めていなかったので、たくさんの
帆にもびっくりしたのでは。


ペリー上陸の図です。よく見ると大砲を運んでいます。試射して国力、技術の大きな
差を見せつけたのでは。


なにせ日本は長らく鎖国していた未知の国でしたから、ペリーは日本に関する詳細な
記録を残しました。その本は西欧中で読まれたそうです。世界中の人々の好奇心を
くすぐったのでしょう。その貴重な本がここで見られますよ^^


なかでも有名なのがこのページ。男女混浴の図です。「恥を知らない」「野蛮」という
わけです。たしか明治期に来たイザベラ・バードが、「日本の女性は足首が少し見えた
だけで恥じらうのに、平気で人前で授乳をする」と驚いていました。私は東洋人として、
西洋人女性は素肌が露出過度だったり、下着が見えても平気なのかィと思ったりします。
つまり文化の違いによって恥の概念がそれぞれ違うってことですよね。


日本には遠洋航海の習慣がほとんどなかったから、望遠鏡(レンズ)は発達しなかった
のでしょうね。


米国人に提供された舟形の弁当箱。シャレオツじゃん(^益^)w


こちら江戸幕府勘定奉行の川路さん。ロシアのプチャーチンとの交渉役で、左の
グラスを贈り物として受け取ったりしました。しかし江戸幕府が崩壊すると同時に
割腹&ピストル自殺の最後だったとか。それってどうよ。。。


そのロシア、ペテルブルグからやてきた帆船ディアナ号。これは安政の大津波で
大破。修理のために移動させているときに富士市付近で沈没。近隣の漁師たちが
荒海に飛び込んで命がけでロシア将兵全員を助けて艦の備品も陸揚げしたとか。
あっぱれ!


ロシアからもらった品々も展示されていました。


プチャーチンの使っていたカバン。よく集めてここに並べましたよねー。


そのディアナ号のロシア人たちが帰るとき、密航でロシアに渡ったやつがいた。
吉田松陰がペリーの船に乗るのに失敗した翌年のことでした。その名は増田粂蔵、
掛川の藩士でした。

ロシアに渡ってからはロシア正教に改宗、橘耕斎と名乗り、ロシア外務省の参事官と
なって日露辞典を作り、大学で日本語も教えたとか。そんなやついたんだなー。
生まれ故郷をすべて捨てて、冒険心?好奇心?


下田とくれば「唐人お吉」だ。米国駐日領事のハリスは体調を崩したとき、下田奉行所に
看護人の斡旋を願い出た。奉行所のほうは「妾」がほしいのだと思い込んで芸妓のお吉を
派遣した。すぐにクビになったのでたった3日の勤務でしたが、外人の酌婦をしたという
ことでお吉は蔑まれ、失意のうちに入水したのであった。。。というのが有名な物語で、
どこまでが史実なのかは定かではない。

写真も数枚残されていますが、どれが本物なのかも定かではありません。一番右の写真、
美人だよねえ! まだ十代で外人の相手をさせられて可哀想、と思いますが、ピューリ
タンはふつう公に妾(娼婦)を要求したりしませんよ。病気の年寄りだったし、おそらく
は本当の看護人を希望していたのでしょう。一方で日本人ときたら、つい最近まで
お偉いさんは妾を持つのが当たり前だったですからねえ。

高給をもらって覚悟の上で行ったお吉、3日で帰されたのは幸いだったかもしれませんが、
そのあとのいじめ・差別を受けての人生はお気の毒でした。。。


お吉の持ち物も並んでいましたよ。


ペリー提督の写真。少しナポレオンに似ているような?


日本人画家が描いた肖像画。下のふたつはひどすぎないか? w(^益^)w


どれも天狗みたいに鼻がデカいと印象を受けたんだな。ちとひどいーw

*この博物館の土産物売り場には酒も置いてあり、だいたいは地酒だったのですが
なぜか「イチローズモルトあります!」という貼り紙が。「おひとり様一本限定」で、
たまに見かけるホワイトラベルだけでなくクラシカルエディションもあるではないか。
ちと考えました。。。しかし明日に神津島に渡るという旅が始まった日だぞ。。。
帰りなら迷わず買ったけれど、やめておきました_| ̄|〇