人吉市願成寺町、相良家の菩提寺「伝法山願成寺」の裏に「相良家の墓地」=初代から37代までの歴代城主等を埋葬=がある。相良氏は藤原鎌足の子孫とされ平安時代の終期には遠江国「相良荘」の地頭をしていた武家である。建久4年(1193)、相良頼景は肥後国球磨郡多良木村に下向し、同9年にその第一子「長頼」が同郡の人吉荘に下向、元久2年(1205)に人吉荘の地頭に任命されている。戦国の世を乗り切り「豊臣秀吉」、「徳川家」からも所領を安堵され明治維新まで命脈を保った。以来700年、人吉球磨は鎌倉初期から江戸時代の終わりまで相良氏の治世下にあり、長きに亘って所領を守り抜いた全国的には稀有な大名である。墓地の構成は相良家初代当主「相良長頼」から37代「相良頼綱」に至る歴代当主、妻、親族の約250基ほどが配されている。入口正面にひと際大きな角柱墓(塔)が相良家初代当主「相良長頼の墓」である。右わきの石段を上っていくと「第1墓所」から「第5墓所」に分けて配置され、優れた構成を見せる。第1墓所には2代から19代迄、主に中世に生きた城主の墓である。石塔は三基の宝篋印塔と三基の近代式角柱塔を除き、他は「五輪塔」形式である。戦国時代以前は小型であるが、江戸時代以降に建立された石塔は規模も大きく墓前の石塔籠が配置されている。中に石田三成の供養墓もある。一族が一ヶ所にこれだけ集められていることは他に類を見ない規模の墓所(墓域)である。(1711)










