ある日突然町の住民が消える原因不明の町の消滅という現象をめぐって、家族や恋人を失った者や例外的に消滅を免れ差別されて生きる者、消滅対策をする「管理局」の者たちの生き様や思いを描いた小説。
町の消滅が何を象徴してるのかは、必ずしも明らかではありません。「町の意志」により住民が消滅に順化し自ら従って消滅していく姿は、無謀な戦争に向かっていく国家とその教育に慣らされていく国民のようにも見えます。失われた町の遺物が「汚染物質」と扱われ関係者が差別される姿は放射線被曝をも連想させます(人が殺されて建物が残るのは中性子爆弾を連想させますし)。他方、中央政府も住民もコントロールできない点では自然災害のようにも・・・。
町の消滅が何を意味しているにしても、この小説で描かれているのは、基本的には、原因不明のコントロールできない現象の対策に取り組む役人たちの生き様だと思います。
消滅を「穢れ」とし、消滅に関する情報を隠蔽するとともに原因不明でその対策が正しいのかわかりもしないのにきまりだからと国民を従わせる姿は、まさしく「知らしむべからずよらしむべし」です。町の消滅の機構を探るために、消滅を免れた人をその町に近くに誘導して追加消滅させたり(218頁)、消滅耐性を持った同窓生を騙して薬物を吸引させたセックスの実験をしたり(326~327頁)、消滅耐性を持った少女を追加消滅の危険のある実験台にしたり(336~337頁)。「管理局」の役人たちは、町の消滅の機構の解明のためには人の命も心も平然と踏みにじります。
この作者の前作の「となり町戦争」では、そういった役人の姿は戯画的に描かれ、行政の横暴さ・非人間性に対する問題提起と読み取れました。
しかし、この作品では、その「管理局」の行為は、より多数の人間を救うためという文句で正当化されています。失われた人々の想い出の品を没収する者は、その行為を「優しいことかもしれない」「いっそ奪われた方があきらめがつくだろう」(52頁)と自己を正当化しています。「管理局」の役人由佳は「例えば、百人を犠牲にすることで、一万人の命を救うことができるんだったら、私はその百人の犠牲を生み出すのに躊躇はしないわ」(322頁)と言い切ります。
しかも、相当な字数に及ぶこの小説の大部分は、消滅に関わった者、特に「管理局」の役人になった者たちのエピソードです。管理局の役人たちの個人的・人間的な部分を延々と描き、仕事中は汚染防止のために「感情抑制」していると設定することで、非人間的な行為をする役人も本当は感情を持った親しむべき人間なのだと描いているのです。そうして管理局の役人側に親近感を持った読者が、多くの者を救うためには一定の犠牲はしかたないという思想を受け入れていくように、この物語は描かれていると、私は感じてしまうのです。
現役の公務員でありながら、「となり町戦争」で役人の非人間性を戯画的に描いた作者に様々なリアクションがあったことは想像に難くありません。しかし、それでこういう方向転換は、読者としては納得できません。
物語の舞台は、近未来のような、しかし高射砲塔や防空演習が描かれて戦時体制が暗示され(203地点は、やはり203高地を象徴しているのでしょうか)、文語体でしゃべる統監や古奏器の登場で時間感覚をぼかした設定です。「いつでもない時」「どこでもない場所」の設定だと思うのですが、それなら香港の九龍城砦を連想させる場所を設定するときに「西域」「居留地」「南玉壁」なんて中途半端な言い換えの固有名詞はやめて欲しいと思いました。
三崎亜紀 集英社 2006年11月30日発行
追伸:朝日新聞は2007年1月7日付けで書評掲載
「消滅した月ヶ瀬町を財政破綻した夕張市に置き換えてみると、とたんにこの幻想的な話がシビアな行政批判にも見えてくる」ですって。ふ~~~~~~~ん。
追伸:直木賞は「該当なし」で落選
となり町戦争の方がよかった、でしょうね・・・