主人公の「ぼく」が、恋人のマリーのビジネス上の知人の中国人チャン・シャンチーを尋ねて上海に行き、そこでチャン・シャンチーの恋人らしきリー・チーと3人で北京に行って、リー・チーとのアバンチュールに溺れながら麻薬取引らしきものに巻き込まれて逃走し、その間にマリーの父が死んだことを知らされて予定を切り上げて北京からパリ、マリーの父の葬儀が行われるエルバ島へと戻ってマリーと再会するまでを描いた、基本的には恋愛小説。
テーマを、マリーの、近親の死に直面しつつ恋人も不在の不安定な心情とその理解におく限りは、巧みな展開と描写と感じられます。
しかし、最初から3分の2までは、舞台は中国でマリーは携帯電話の向こう側、主要にはぼくのリー・チーとのアバンチュール、異国での言葉がわからない中での宙ぶらりんで苛立つ心情などが中心で、これは何だったのだろうという思いが残ります。中国でのできごとは決着もつけられず/示されずに放り投げられたままですし。
そして、この小説で結局理解できないのはリー・チーの気持ち・考え。恋人のチャン・シャンチーと同行しながら、初対面のぼくとアバンチュールを楽しみ、その内心の描写もなく、チャン・シャンチーとの関係でどう位置づけているのかも全くわかりません。リー・チーはぼくにとって異国のエキゾチックな理解不能なアバンチュールの道具としてあるようで、東洋人がそういう道具として出てくることに、ヨーロッパの批評家たちは何とも思わないかも知れませんが(訳者あとがきによればすべての書評がこの作品を高く評価しているそうです)、私はどこか差別的/コロニアルな価値観を感じてしまい、ちょっと不愉快でした。
後半のマリーとの関係での描写でも、主人公をぼくと表記し続けつつ(ぼくを名前のある存在にしたくなかったのでしょうけど)マリーの視点で書いているページがしばらく続くのは、文学的な技法かも知れませんが、ちょっと落ち着かない感じがします。

原題:FUIR
ジャン=フィリップ・トゥーサン 訳:野崎歓
集英社 2006年11月30日発行 (原書は2005年)
テーマを、マリーの、近親の死に直面しつつ恋人も不在の不安定な心情とその理解におく限りは、巧みな展開と描写と感じられます。
しかし、最初から3分の2までは、舞台は中国でマリーは携帯電話の向こう側、主要にはぼくのリー・チーとのアバンチュール、異国での言葉がわからない中での宙ぶらりんで苛立つ心情などが中心で、これは何だったのだろうという思いが残ります。中国でのできごとは決着もつけられず/示されずに放り投げられたままですし。
そして、この小説で結局理解できないのはリー・チーの気持ち・考え。恋人のチャン・シャンチーと同行しながら、初対面のぼくとアバンチュールを楽しみ、その内心の描写もなく、チャン・シャンチーとの関係でどう位置づけているのかも全くわかりません。リー・チーはぼくにとって異国のエキゾチックな理解不能なアバンチュールの道具としてあるようで、東洋人がそういう道具として出てくることに、ヨーロッパの批評家たちは何とも思わないかも知れませんが(訳者あとがきによればすべての書評がこの作品を高く評価しているそうです)、私はどこか差別的/コロニアルな価値観を感じてしまい、ちょっと不愉快でした。
後半のマリーとの関係での描写でも、主人公をぼくと表記し続けつつ(ぼくを名前のある存在にしたくなかったのでしょうけど)マリーの視点で書いているページがしばらく続くのは、文学的な技法かも知れませんが、ちょっと落ち着かない感じがします。

原題:FUIR
ジャン=フィリップ・トゥーサン 訳:野崎歓
集英社 2006年11月30日発行 (原書は2005年)