伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

切羽へ

2009-12-31 13:14:46 | 小説
 九州のかつて炭鉱があった島で暮らす31歳小学校養護教諭麻生セイが、画家の夫と仲良く暮らしながらも、新任の教師石和聡に心惹かれていく様子を描いた恋愛小説。
 セイと夫の関係は、平穏で、愛情が冷めているわけではなくむしろ心も通っているという設定。そして石和は、子供たちには一生懸命になるものの、人付き合いも悪く、特に招かれなかったから始業式に出席する必要はないと思ったというような常識に欠ける人物で、同僚の月江が不倫相手に振られるや寝てしまうという人物。セイがなぜ石和に惹かれていくのかは、理解しがたいものがあります。
 夫に特に不満がないのに、むしろ夫婦仲はいいのに、しかし他の男に心を惹かれてしまう、それはロマンチックでもあり恐ろしくもあり、そういった人間の気持ちのありようを味わう作品だと思います。
 同僚の月江に不倫関係を任せ、主人公のセイには不倫に走らせないことで、心のありように集中させたところが作品の質を高めたと言えるでしょう。もっとも、月江もしずかばあさんもセイの秘めた心を指摘しているのは、それが公然の秘密ということか、さらには不倫関係を暗示しているのかもしれませんが。
 章タイトルが「三月」で始まり順次ほぼ1年がめぐりますが、章の冒頭が明らかに前月のできごとの当日だったりして内容とあっていない感じがします。しかも連載が「小説新潮」の2005年11月号(2005年10月発売)から開始して1年ということですから毎回5か月ずれてる(ほぼ反対の季節)のも人を食った話。


井上荒野 新潮社 2008年5月30日発行
直木賞
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偶有からの哲学

2009-12-31 00:12:47 | 人文・社会科学系
 フランスの哲学者である著者がラジオ番組で行った哲学と技術、とりわけ記憶に関わる技術の問題についてのレクチャーを単行本化したもの。
 カバー見返しで「哲学の問題は技術の問題である」というキャッチをつけ、冒頭でも哲学と技術の関係を語っていますが、ここで言われる技術は、少なくとも前半では、工学的な技術ではなく、人間の経験を外部に記録して記憶として後日の自分にまた他人に伝える技術、すなわち主として文字・言語のことです。
 この「記憶の技術」によって人間は他の動物と異なり経験を集積し継承できるということ、そして人間が過去を把握する際には音楽や映像のような時間とともに流れ行く情報の連続的な把握、過去の記憶の想起、外部に記録された記憶による想起があるが、外部に記録された記憶は産業化され得、その想起も産業的にコントロールされ得ること、そして産業の発達により録音や録画が可能になり記憶の外部化は文字のみならず音声・映像にも及んだが、文字による記憶のレベルでは書き手と読み手は同レベルの知識を要し交代し得たが音声・映像による記憶では出し手と受け手の不平等化が進み受け手は「消費者」となることが語られています。記憶の外部化だけであれば、それによる想起は人によりまた同一人でもその時により内容や意味が異なり得て特異性(唯一性)が確保できたが、本来は真実を求めていた科学が経済的権力に奉仕して資本と市場の原理を追及した結果、消費者として資本が用意した範囲での差異しか許されないように意識がコントロールされるようになってきているというようなことが、現代哲学の概念と用語や歴史上の哲学者を引き合いに出して語られています。
 言っている内容は、別に現代哲学の小難しい概念や用語を用いなくても説明できると思うのですが。語り言葉で、ラジオでのレクチャーにもかかわらずこういう展開をしてしまうところが、哲学者って普通に考えられることをわざわざ難しく言う人なんだなと思わせてしまう原因だと思います。


原題:Philosopher par accident
ベルナール・スティグレール 訳:浅井幸夫
新評論 2009年12月10日発行 (原書は2004年)
コメント (1)
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