朝日新聞記者が、これまでに原発訴訟に関与した裁判官に対して行ったインタビューなどをとりまとめた本。
住民側が勝訴した2判決を書いた裁判官のインタビューでは、審理の過程でのできごとについて、次のようなことが語られています。「原発のような危険な施設を扱っている電力会社としては、多くの地震学者が集まって調査した結果、M7.6の地震がありうると言うのであれば『念のためそれを前提とした耐震設計をしましょう』という謙虚な姿勢になって当然だと思うんです。ところが、政府の地震調査委員会の分析の方が間違っている、自分たちが正しい、と主張する。甘い想定で『安全だ、安全だ』と声高に言っても裁判官はそれに乗るわけにはいきません。そのこと自体が、電力会社の姿勢としていかがなものかと思いました」(102ページ:志賀原発2号機訴訟1審裁判長)、「申請者がさまざまな場面で計算した多数の解析について原子力安全委員会が『これをもっと厳しい条件下で計算し直したらどうなるのか』と要求したことがあるのかどうかを、証人である原子力安全専門審査会委員に聞いています。すると『そういうことを指示したことは一度もない』というのですから、驚きました。国は、『極めて厳しい条件でやってますから、それ以上の厳しい条件を設定して、計算させる必要はなかった』という。だけど、設計時に動燃がおこなったナトリウム漏れ事故の解析は甘く、不十分なものであったのですから、こんな審査のあり方で大丈夫かという不安を持ちました。このあたりが原子力安全委員会に不信感を持つ一因となりました」(141~142ページ:もんじゅ訴訟2審裁判長)。このあたりの電力会社と国の傲慢さ、杜撰さが裁判所の心証に強く影響したのですね。裁判官の受け止め方として、ごく普通の素直なものと思えます。この2つの判決は、裁判官が、通常の民事事件で裁判官が持つ素直な心証を維持できたから実現したものだということがわかります。ほかの原発訴訟でも、同じようなことはあるのですが、そこでは担当した裁判官が同じようには考えてくれなかったか、そのような考えがどこかにしまい込まれたかしたのでしょう。
住民敗訴の事件を担当した裁判官のインタビューでは、福島原発震災後に今だったら…と語る裁判官よりも、女川原発訴訟と志賀原発1号機訴訟の上告審を担当した元原利文元最高裁判事が「事件の詳細はよく記憶していません」(172ページ)、「2件の原発訴訟についても審議した記憶はありませんからおそらく調査官の意見通りに『上告棄却』となったケースだろうと思います」(174ページ)と述べていることに、私は衝撃を受けました。原発訴訟の上告審判決が、いわゆる持ち回り審議事件で、事実上調査官報告書だけで裁判官が議論することさえなくなされていたようなのです。最高裁が原発訴訟で国策に反した判断をすることまでは期待できないでも、せめて裁判官が議論を尽くして判断して欲しいし、またせめて裁判官がこの判決は原発訴訟なのだということを意識した上で判決をして欲しかったと思います。その程度のことでさえ、贅沢な希望だったのでしょうか。
磯村健太郎、山口栄二 朝日新聞出版 2013年3月30日発行
住民側が勝訴した2判決を書いた裁判官のインタビューでは、審理の過程でのできごとについて、次のようなことが語られています。「原発のような危険な施設を扱っている電力会社としては、多くの地震学者が集まって調査した結果、M7.6の地震がありうると言うのであれば『念のためそれを前提とした耐震設計をしましょう』という謙虚な姿勢になって当然だと思うんです。ところが、政府の地震調査委員会の分析の方が間違っている、自分たちが正しい、と主張する。甘い想定で『安全だ、安全だ』と声高に言っても裁判官はそれに乗るわけにはいきません。そのこと自体が、電力会社の姿勢としていかがなものかと思いました」(102ページ:志賀原発2号機訴訟1審裁判長)、「申請者がさまざまな場面で計算した多数の解析について原子力安全委員会が『これをもっと厳しい条件下で計算し直したらどうなるのか』と要求したことがあるのかどうかを、証人である原子力安全専門審査会委員に聞いています。すると『そういうことを指示したことは一度もない』というのですから、驚きました。国は、『極めて厳しい条件でやってますから、それ以上の厳しい条件を設定して、計算させる必要はなかった』という。だけど、設計時に動燃がおこなったナトリウム漏れ事故の解析は甘く、不十分なものであったのですから、こんな審査のあり方で大丈夫かという不安を持ちました。このあたりが原子力安全委員会に不信感を持つ一因となりました」(141~142ページ:もんじゅ訴訟2審裁判長)。このあたりの電力会社と国の傲慢さ、杜撰さが裁判所の心証に強く影響したのですね。裁判官の受け止め方として、ごく普通の素直なものと思えます。この2つの判決は、裁判官が、通常の民事事件で裁判官が持つ素直な心証を維持できたから実現したものだということがわかります。ほかの原発訴訟でも、同じようなことはあるのですが、そこでは担当した裁判官が同じようには考えてくれなかったか、そのような考えがどこかにしまい込まれたかしたのでしょう。
住民敗訴の事件を担当した裁判官のインタビューでは、福島原発震災後に今だったら…と語る裁判官よりも、女川原発訴訟と志賀原発1号機訴訟の上告審を担当した元原利文元最高裁判事が「事件の詳細はよく記憶していません」(172ページ)、「2件の原発訴訟についても審議した記憶はありませんからおそらく調査官の意見通りに『上告棄却』となったケースだろうと思います」(174ページ)と述べていることに、私は衝撃を受けました。原発訴訟の上告審判決が、いわゆる持ち回り審議事件で、事実上調査官報告書だけで裁判官が議論することさえなくなされていたようなのです。最高裁が原発訴訟で国策に反した判断をすることまでは期待できないでも、せめて裁判官が議論を尽くして判断して欲しいし、またせめて裁判官がこの判決は原発訴訟なのだということを意識した上で判決をして欲しかったと思います。その程度のことでさえ、贅沢な希望だったのでしょうか。
磯村健太郎、山口栄二 朝日新聞出版 2013年3月30日発行