なあむ

やどかり和尚の考えたこと

雲水道中記ー永平寺から最上へー 9

2009年11月19日 19時45分37秒 | 雲水道中記

3月17日。
山門にて送行のお拝。朝課中に朝課の鐘の音に合わせてお拝をするというのが当時の慣わしだったようで、それに倣って静かに一人旅立とうと思った。
朝課に出ていない同安居(同じ年に上山した修行仲間)数名が見送りに来てくれた。
思えば1年前この山門前に立ったときは、「もうどうにでもなれ」と、死ぬ覚悟を決めたような心境だった。
修行を終えてここから出るときはどんなに晴れやかだろうかと、その時の気持ちを夢見るように想像していたような気がする。
A3203550a 今、その時を迎えて、晴れやかというよりも、今ここを出てしまったら、もう二度とここで修行生活を送ることはできないのだという、寂しさがこみ上げて、お拝しながら目が潤んできた。
厳しくはありながら、「永平寺で修行した」という実感は、紛れもなく誇らしさとして胸に刻まれ、ここを出てしまうことのもったいなさを感じていた。
7時、祖父から送ってもらったビニールの草鞋の紐をしっかりと結んで、第一歩を踏み出した。
永平寺の山は雨だった。
春先の冷たい雨が草鞋の足からにじんできて脚絆を濡らしたが、1年ぶりに何の制約もなく、自分の意志でどこまでも歩けるんだという開放感が、足を軽くしていた。

道の途中、すれ違った赤い傘を差した女性が「おはようございます」と声をかけてくれた。下界の人と1対1で、声をかけられる、それだけで「道場を出たんだ」という実感につながってくる。娑婆の匂いをかぐように大きく息を吸い込んだ。

今日は松岡の天龍寺さんに泊めていただくことに決めていた。