昨日のうちにアップしようとしたが、なかなかうまくまとまらず、本日のアップとなってしまった。
私は写真芸術については詳しくはない。日本の写真家で土門拳と植田正治、そして今年になって二川幸夫、ロバート・キャパとゲルダ・タロー、北井一夫の写真展を見てこのブログに取り上げた。しかしそれ以上の知識は皆無に等しい。
マリオ・ジャコメッリについてもまったく初耳であった。たまたま東京都写真美術館のホームページで知って、本日この展覧会を見てきた。ネットで検索すると、「イタリア人写真家マリオ・ジャコメッリは1925年8月1日イタリア北東部のセニガリア生まれです。13歳の時、印刷所で雇われ、その後その印刷所のオーナーとなっています。最初はアマチュアの画家および詩人でしたが、1954年以降に独学で写真を学び印刷の仕事のかたわら写真家としてのキャリアをスタートします。 エチオピアやチベットなど遠方地での撮影も行なっていますが代表作は主に地元中心に旧式の改造されたカメラで行われています。アマチュア写真家ですが、ニューヨーク近代美術館のジョン・シャーカフスキーやジョージ・イーストマン・ハウスのネイサン・ライオンズなどが収蔵作品に加えたり展覧会を企画するなど高く評価しました。シュールな印象のコントラストが強いモノクロ写真が特徴。終生に渡り、生と死がテーマになっており、代表作は、「ホスピス」(1954-83)、「風景」(1954-2000)、「スカンノ」(1957,59)、「若き司祭たち」(1961-63)など。空中撮影された抽象的なイタリア田舎風景や老人ホームの写真で知られています。2000年11月25日にアドリア海に面したセニガリアで75歳で亡くなりました。」とある。
写真展に足を踏み入れて、最初の印象は植田正治の写真に似ているな、とちょっと思った。しかし植田正治の写真よりずっとハイ・コントラストの作品を見ていて、作品に映っている人物からこちらを注視されているような錯覚をまず覚えた。
特に、「ホスピス(死がやって来てお前の目を奪うだろう)」には射すくめられた。ホスピスにいる死を待つ人々の目からは、逆に死の世界からこちらを覗かれるような鋭い視線を感じた。見られているのは写真の対象ではなく、生者である私たちという反語が成り立つようなきわどい地平にあるように感じてしまう。
だから、いわゆるドキュメンタリー写真とはまったく異質だ。人物が映っていてもそれはあくまでも写真家の心象風景である。作者の目に映る社会の事象を切り取るのではなく、被写体を通して心象風景をそこに映し出していることに実に自覚的な作品だと思う。上にあげた作品など、中央にいる少年の目だけが生々しい。この目は作者の社会に対する目、作者と社会との距離、作者の社会に対する不安や懐疑を写し取っているとしかいいようがない目だ。
そして多数の人物を写しながら、造形的な写真である。これはなかなか出来ないことのように思う。
その手法の秘密は、作者が印刷所の仕事の傍ら、土・日に撮影に出かけ、平日の夜仕事が終わってから夜間にひたすら暗室で現像作業を繰り返し、トリミングや覆い焼き・多重露出などの技術を繰り返して作品を仕上げたということに求められる。狭い暗室の中から浮かび上がってくる写真をとおして、作者は自らの想念と外界との距離を計測しながら自分を見つめていたのだと思う。
もうひとつ、私が強く感じたのはあのハイ・コントラストが語る不思議な抽象である。あのようにコントラストを強調し、白と黒の世界を作り上げる根拠は何なのだろうか、とまず誰でもが思う。この強調された白と黒の関係は、時には反転したり、距離感が喪失したり、映っているものの相互関係が曖昧になったりして私の目に飛び込んでくる。私はこのコントラストを強調することで、映っている人物の表情や周囲との関係性が、具体的な生身の関係性から切り離され、具体的な時間もそぎとられより抽象化され、普遍化されたと思う。
作者の周囲に具体的に生きている人物や対象の物から、より普遍的でどこにでもいる人物、どこにでもある物へ挿げ替えるている。そして作者の自我だけがそこに残って定着しているのだ。作品の脇に掲げられた作者の言葉、詩のような言葉が作品の背後から滲み出るように私の目に映る。作品とこれらの言葉が交互に私の脳に何かしらの作用をするように感じる。
このように抽象的にしか言葉が出てこない、しかし明瞭に脳に刻み込まれるような強い印象を受けた。
私はいくつもの作品群があるなかで、「詩のために」がとても気に入った。しかしいつものように私の気に行った作品は、カードにはならない。もうひとつの気に入った作品は上に掲げた。石畳の繰り返される細かい模様、黒い手摺の屈曲を背景に決してこちらを向かない黒い人物と白い少女の点景。作者にとって心を開いてくれない社会、人々との距離が見えてくるというのは、私の間違った鑑賞だろうか。
こんな言葉も掲げられていた。
「それぞれの道をゆく写真が存在し、そのどれもが人生の意味を探しにゆく。苦しみのあるところに希望を見つけ、歓びと思われるものは辛いあと味を残す。きっとそこにこそ人生がある。一人ひとりに苦しみがことさら大きく、世界の生命では生ききれないところに。」
マリオ・ジャコメッリという写真家、とても忘れることの出来ない魅力的な写真家であり、思索者だと感じた。
なお、辺見庸に「私とマリオ・ジャコメッリ」という作品がある。写真美術館のミュージアムショップでも販売していたが、費用の面で今回は購入できなかった。わたしは辺見庸の作品は読んだことはない。しかしこれは是非ともいつか手に入れて読んでみたいと思った。また、図録=写真集も3990円はとても手がでなかった。残念である。
私は写真芸術については詳しくはない。日本の写真家で土門拳と植田正治、そして今年になって二川幸夫、ロバート・キャパとゲルダ・タロー、北井一夫の写真展を見てこのブログに取り上げた。しかしそれ以上の知識は皆無に等しい。
マリオ・ジャコメッリについてもまったく初耳であった。たまたま東京都写真美術館のホームページで知って、本日この展覧会を見てきた。ネットで検索すると、「イタリア人写真家マリオ・ジャコメッリは1925年8月1日イタリア北東部のセニガリア生まれです。13歳の時、印刷所で雇われ、その後その印刷所のオーナーとなっています。最初はアマチュアの画家および詩人でしたが、1954年以降に独学で写真を学び印刷の仕事のかたわら写真家としてのキャリアをスタートします。 エチオピアやチベットなど遠方地での撮影も行なっていますが代表作は主に地元中心に旧式の改造されたカメラで行われています。アマチュア写真家ですが、ニューヨーク近代美術館のジョン・シャーカフスキーやジョージ・イーストマン・ハウスのネイサン・ライオンズなどが収蔵作品に加えたり展覧会を企画するなど高く評価しました。シュールな印象のコントラストが強いモノクロ写真が特徴。終生に渡り、生と死がテーマになっており、代表作は、「ホスピス」(1954-83)、「風景」(1954-2000)、「スカンノ」(1957,59)、「若き司祭たち」(1961-63)など。空中撮影された抽象的なイタリア田舎風景や老人ホームの写真で知られています。2000年11月25日にアドリア海に面したセニガリアで75歳で亡くなりました。」とある。
写真展に足を踏み入れて、最初の印象は植田正治の写真に似ているな、とちょっと思った。しかし植田正治の写真よりずっとハイ・コントラストの作品を見ていて、作品に映っている人物からこちらを注視されているような錯覚をまず覚えた。
特に、「ホスピス(死がやって来てお前の目を奪うだろう)」には射すくめられた。ホスピスにいる死を待つ人々の目からは、逆に死の世界からこちらを覗かれるような鋭い視線を感じた。見られているのは写真の対象ではなく、生者である私たちという反語が成り立つようなきわどい地平にあるように感じてしまう。
だから、いわゆるドキュメンタリー写真とはまったく異質だ。人物が映っていてもそれはあくまでも写真家の心象風景である。作者の目に映る社会の事象を切り取るのではなく、被写体を通して心象風景をそこに映し出していることに実に自覚的な作品だと思う。上にあげた作品など、中央にいる少年の目だけが生々しい。この目は作者の社会に対する目、作者と社会との距離、作者の社会に対する不安や懐疑を写し取っているとしかいいようがない目だ。
そして多数の人物を写しながら、造形的な写真である。これはなかなか出来ないことのように思う。
その手法の秘密は、作者が印刷所の仕事の傍ら、土・日に撮影に出かけ、平日の夜仕事が終わってから夜間にひたすら暗室で現像作業を繰り返し、トリミングや覆い焼き・多重露出などの技術を繰り返して作品を仕上げたということに求められる。狭い暗室の中から浮かび上がってくる写真をとおして、作者は自らの想念と外界との距離を計測しながら自分を見つめていたのだと思う。
もうひとつ、私が強く感じたのはあのハイ・コントラストが語る不思議な抽象である。あのようにコントラストを強調し、白と黒の世界を作り上げる根拠は何なのだろうか、とまず誰でもが思う。この強調された白と黒の関係は、時には反転したり、距離感が喪失したり、映っているものの相互関係が曖昧になったりして私の目に飛び込んでくる。私はこのコントラストを強調することで、映っている人物の表情や周囲との関係性が、具体的な生身の関係性から切り離され、具体的な時間もそぎとられより抽象化され、普遍化されたと思う。
作者の周囲に具体的に生きている人物や対象の物から、より普遍的でどこにでもいる人物、どこにでもある物へ挿げ替えるている。そして作者の自我だけがそこに残って定着しているのだ。作品の脇に掲げられた作者の言葉、詩のような言葉が作品の背後から滲み出るように私の目に映る。作品とこれらの言葉が交互に私の脳に何かしらの作用をするように感じる。
このように抽象的にしか言葉が出てこない、しかし明瞭に脳に刻み込まれるような強い印象を受けた。
私はいくつもの作品群があるなかで、「詩のために」がとても気に入った。しかしいつものように私の気に行った作品は、カードにはならない。もうひとつの気に入った作品は上に掲げた。石畳の繰り返される細かい模様、黒い手摺の屈曲を背景に決してこちらを向かない黒い人物と白い少女の点景。作者にとって心を開いてくれない社会、人々との距離が見えてくるというのは、私の間違った鑑賞だろうか。
こんな言葉も掲げられていた。
「それぞれの道をゆく写真が存在し、そのどれもが人生の意味を探しにゆく。苦しみのあるところに希望を見つけ、歓びと思われるものは辛いあと味を残す。きっとそこにこそ人生がある。一人ひとりに苦しみがことさら大きく、世界の生命では生ききれないところに。」
マリオ・ジャコメッリという写真家、とても忘れることの出来ない魅力的な写真家であり、思索者だと感じた。
なお、辺見庸に「私とマリオ・ジャコメッリ」という作品がある。写真美術館のミュージアムショップでも販売していたが、費用の面で今回は購入できなかった。わたしは辺見庸の作品は読んだことはない。しかしこれは是非ともいつか手に入れて読んでみたいと思った。また、図録=写真集も3990円はとても手がでなかった。残念である。