Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春たけなわ、何かと騒がしい

2013年04月15日 20時42分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は組合の退職者会の月に一度の幹事会。今週末の退職者会の年に一度の総会の議案などを討議して終了。
 行きは1時間かけて歩いて会場へ。帰りはかなりの遠回りをして、2時間かけて約10キロを歩いた。朝からの合計でようやく25000歩程。最近歩数が少々減っているので、心して歩く距離を伸ばすようにしたい。最低でも25000歩、できれば30000歩を毎日達成したい。すべて歩いたとして約16キロ~20キロメートル位の距離になるだろうか。



 よく晴れた日で、夕陽が大変美しかった。あわてて携帯電話のカメラで撮影したが、満足には撮影できなかった。

 歩いている途中の住宅街の信号のある交差点で、70をはるかに超えたと思われる老婆が交番の警察官に杖を振りかざして怒鳴り散らしていた。信号を待つ間、聞きたくも無いが耳に入ってきた。「信号を待つ時間が長すぎるからもっと短い間隔で信号を変えろ。歳よりは気が短いんだ」ということを何回も大声で繰り返している。警察官も根気よく丁寧に対応しているようだったが、いやはや大変だな、と警察官に同情した。しかしこんなのにかかわりたく無いので、さっさとその場を立ち去った。
 あの杖を振り回す勢いといい、大声といい、すごいものだ。私も現役の頃クレーマーに近い粘着質の苦情に散々付き合わされたのを思い出して、一気に憂鬱な気分になった。


 昨日の日曜美術館で河井寛次郎について放送していた。そこで取り上げられた作品がとても気に入って、昨日のブログに記載した。しかし陶芸についてこれ以上深入りすると自分でも収拾がつかなくなりそうなので、とりあえずネットで河井寛次郎について最低限の情報を仕入れたので、覚書としてここに記しておくことにした。
 取り合えず、この程度で一段落としたいと思う。下記の記事はただコピーしただけ。評価は何も下していない。

河井 寛次郎(かわい かんじろう、1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。
陶芸のほか、彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野でも優れた作品を残している。
-学校での研究-
 当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場[1]に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。
-華麗な作風からの転換-
1921年、「創作陶磁展覧会」を東京と大阪の高島屋で開催した。このとき東京高島屋の宣伝部長であった川勝堅一と知り合い、生涯にわたり親交をもつ。高島屋での陶磁展では、中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びた。しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになる。創作陶磁展覧会と同時期に柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受ける。“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と、自らの作品制作を中断する。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。
-民芸運動、日用の美へ-
 河井寛次郎記念館1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになる。富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更した。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びた。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになる。
 室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成させた。この自宅兼仕事場が現在の河井寛次郎記念館になっている。同じ年、川勝堅一の計らいで「鉄辰砂草花図壷」がパリ万国博覧会でグランプリを受賞する。
-より奔放な作風へ-
 第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。
 1955年文化勲章を辞退する。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。

 この文化勲章辞退、人間国宝・芸術院会員辞退などちょっと反骨精神豊かな人だったのかな、と追って調べたい気もするが‥。それよりも作品は見てみたい。

 京阪電車「清水五条」駅近くに「河井寛次郎記念館」というのがあるようだ。また、「火の誓い」、「蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ」(ともに講談社文芸文庫)という二冊のエッセイと詩が刊行されている。


 今回はこの程度の調査で終わらせることにした。いづれ何かの折に、自分なりの感想を掲載できるかもしれない。