Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

背黄青鸚哥(セキセイインコ)をもう一羽

2013年04月28日 22時01分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
   

 背黄青鸚哥(セキセイインコ)をもう一羽購入した。2年前に購入した背黄青鸚哥が一人身のオスなので、相方をということで生後二ヶ月あまりの雛を購入した。ただしまだ雄雌は区別がつかないので、ひょっとしたらオスなのかもしれないが、これは賭けのようなもの。雌雄どちらにしろ、前に購入した鸚哥と相性が良いとうれしいのだが‥。
 頭と尻尾の白いところが特徴。ここが気に入って購入した。
 以前から飼っている鸚哥の名は「ナナ」である。これはレインボーという種から七色→ナナと相成った。今回は雛だから「ヒナ」、生まれが静岡と記載されていたので「シズ」などの候補があったが素直な子になれということで「ナオ」となった。
 購入して我が家についてみるととてもおとなしい。健康そうで店では羽をバタバタさせ元気であった。また同時に店に来た他の4羽と較べても元気に動いていた。慣れていないので緊張してるのかとも思っているが、それでもガサガサ動き回らない。手に取ると最初は嘴で人間の指をつつくがすぐにおとなしく手の温もりに身をまかせている。人間の腹の上に乗せると温かさを求めて上着の間にもぐりこんだり、腹と腕の間に身を入れようとする。なかなかかわいげな仕草である。妻はかなり気に入った様子だ。
 2年前に購入した鸚哥と較べるとやはりひと回り以上小さい。尾が四分の一ほどしかない。餌を食べる勢いは強い。しっかり食べている。当分は一日3回ほど手で餌をやらなくてはならない。手がかかる分楽しいのであろう。

「百花繚乱」展 感想

2013年04月28日 17時49分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 この山種美術館の「百花繚乱」展、ネットで検索していたら鈴木其一の四季花鳥図と牡丹図が前期展示ということになっていた。この作品を見たくて出かけた。色彩が溢れるような其一は2008年の東京国立博物館の大琳派展で見て以来記憶に残っている江戸末期の画家で、酒井抱一の弟子にあたる。

   

 有名な「朝顔図屏風」、「萩月図襖」や着色の「風神雷神図」ほど色彩の妙はないが、金泥を背景にした夏・秋の草花と鳥の色が美しい。金泥を背景にしているので目立たないが黄色の向日葵は形も色も右隻の中心をなして存在感がある。この向日葵一点に焦点をしぼって描けばゴッホのひまわりになるような、燃える色・形を連想させる。
 普通は左右ともに大きな古木を中心に据えるのだろうが、この絵は草花だけを主役に、その下にたたずむ控え目な鴛鴦と鶏を配している。夏の図の中心は向日葵、秋の図の中心は菊。配色の難点は金泥の背景だ。これが銀色ならばもっとそれぞれの花の色彩が浮き出るように目立つのに、と思うのは的外れなのだろうか。
 できればこの絵の全体が映っているカードが欲しかったのだが、どういうわけか左右それぞれ中心部分を拡大したもののみを販売していた。これはもったいないというか、どうしてこんな処置をしたのだろうと思ってしまった。
 もう一枚の牡丹図も色彩が美しい。これはカードは販売していなかった。残念。ホームページには小さいながらも図が載っている。小品だがこれはバックの金地に花と葉の色がよく映えている。私の好みである。

 この展覧会の目玉として荒木十畝(1872-1944)の「四季花鳥」がチラシなどに取り上げられている。「伝統を墨守した画家といわれるが、「守旧漸進主義」を掲げ伝統を基礎に象徴主義的作風から、精神性を強く打ち出した優美な絵画世界を構築した」画家ということらしい。この「四季花鳥」、秋の紅葉の赤が私にはあまりにあざとい赤に思えて敬遠してしまった。
 この作品を大きく写したこの展覧会のチラシもこの絵の部分を大きく拡大して図案化している。確かにこのように切り取れば、赤の彩りも落ち着く。デザインした方の目に同意は出来る。良い判断とは思う。しかし原作を見せるという立場からするといかがなものか。どうもこの山種美術館は作品の部分的な拡大図を多用するようだ。作品の鑑賞という立場からして好ましいことなのだろうか。私にはちょっと残念な気がする。作品全体は展示で見て欲しいということなのだろうが、カードまで部分の拡大図というのは疑問符がついてしまう。



 また速水御舟(1894-1935)の「名樹散椿」もこの展示の目玉になっている。「徹底した写実、細密描写から代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進む。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定。腸チフスにより40歳で急逝」と解説がある。この椿は「京都市椿寺の椿。白・紅・桃色・紅白絞りと種々の華麗な花を咲かせ、しかも山茶花のようにひとひらずつ散る五色八重散り椿として有名」ということだ。「日本画の写実的な部分に、大胆にキュビズムに似た表現を取り入れた意欲作」という評価になっている。
 この絵を初めて目にしたのだが、「山茶花みたいな散り方で変な椿」と感じてそのまま通り過ぎた。それでも何となく気になってカードを買ってみて以上の知識を得た。そういわれてみれば、幹と枝の描写はちょっと変わっている。また構図も大胆である。好みは分かれるかもしれない。私は椿の頂部をカットしたのはいいと思うのだが、散った花弁が散らばる苔の生えた地面をもっと大胆に大きく描いてほしいと感じた。左の金色の何もない空間が何となく空虚に無駄な、寸詰まりの空間に感ずる。下にカットした地面があれば、その金色の空間を下支えして安定すると思うのだが‥。
 私の感覚は俗っぽいかもしれない。つまらない安定感を優先しているかもしれない。次の瞬間にはこの不安定感がこの絵の心髄ともおもうこともある。いろいろ考えるということは良い作品といえるかもしれない。
 なお、残念ながら酒井抱一の「立葵図」は後期の展示で見ることができなかった。