1612年頃のこの絵、私は初めて見たのだが、そのときとても不思議な感じがした。何かギクシャクしているというか、まとまりが無いというのか、焦点はどこなのだろうか、あるいは全般に統一感が感じられないような絵だと思った。
絵をいくら眺めても何が理由なのかわからない。二人の小さな子供に明るくライトが当たっているので、この子達が有名なローマの起源神話に出てくる狼に育てられた幼い二人と、右奥が二人の子供を見つけた羊飼いという設定はわかった。しかし左奥の男女二人が誰なのかわからない。羊飼いと思しき男も、子供二人もこの男女二人とどのような関係なのか、関係が希薄だ。狼+子供二人、男女二人、羊飼いこの三つの要素が無関係に画面に同在しているように見える。さらに狼と子供二人も何故かつながりが希薄にも思えた。
絵の横の解説を見ても題名の由来が書いてあるだけで私の疑問は解決しない。でも何かひかかる。チラシの一面に掲げられた絵でもあるしよほど有名なのだろう。しかし自分にはこの絵はピンとこない絵の部類なのだろうということでそのまま通り過ぎた。
図録を購入し、この絵の解説を読んでようやく飲み込めた。左奥の男女二人は、土地の精霊と川の水源を象徴するニンフであり、人間には認知できない不可視の存在なのだそうだ。また三羽のキツツキがいて、一羽が子供にサクランボを与えているとのこと。二人の子供は狼だけでなくキツツキにも育てられた存在ということらしい。また、狼と子供二人については、ローマの古代彫刻を絵画化したらしいが、その際、子供二人の大きさを実際よりも大きく描いてこの建国神話の主人公を強調したらしい。
私の無知を恥じ入ると同時に、私が抱いた違和感は間違っていなかったことがわかり、ちょっと自我自賛と相成った。
私の違和感どおり、この左奥の二人は狼・子供の一団、羊飼いとはまったく無関係に存在する精霊であるので、視線も交わらないし、他の存在に関与しない存在ということだ。ローマという環境の象徴らしい。この男女二人でひとつの世界が存在する。
そして一人の子供は狼の乳を飲んでいるが、もう一人はキツツキの運んできたサクランボを取ろうとしているということだ。私はこのキツツキの存在が目に入らなかった。狼とキツツキと互いに無関係らしい。狼・キツツキ・子供二人これがひとつの世界を作っている。しかし子供の形を大きくしたことで、狼との関係が構図上ちょっと不思議な関係になったのだろう。狼は子供の足を舐めていると図録の解説に記載がされているが、実際は舐めてはない。狼の視線は子供を無視している。これは不思議だ。子供は羊飼いの存在に気付いていない。
小さい子供、二人一緒に並べるとお互いの存在に気をとられているようにも振舞うし、お互いに無関係のようにも振舞う。この不思議な関係を念頭にして二人の子供を描いていると思う。子供をよく観察している画家だと思った。
そして子供を発見した羊飼いは、子供だけに視線が向いている。狼やキツツキの存在が目に入っていないようだ。狼もキツツキも羊飼いの存在に気付いていない。
三つの要素が、明確にお互いの存在を無視して、それぞれの時間と存在が交わっていないのだ。しかも狼とキツツキも互いに関係が無いようだ。
これが私が抱いた画面に対する違和感の原因だとようやく理解した。特に精霊の存在が絵を難解にしてはいないだろうか。
そういえば、絵巻物などの日本の絵も時間は画面によって違う時間が流れている。この時代、洋の東西を問わず、画面に時間軸のちがう複数の世界が同在するのが当然であったことを忘れては鑑賞にならない。時代を超えた絵画の鑑賞の難しさを実感した。
現代に住む私にはちょっと理解が難しかった。子供二人の仕草、狼の形、キツツキの動き、羊飼いの動作、男女の精霊それぞれはそれぞれに動きがあって、面白いのだが、統一感はない。
さてこの絵に深入りしていては他の絵に届かないので、次の絵にいこう。次に私の目にとまった絵は、「聖母子と聖エリザベツ、幼い洗礼者ヨハネ」と「眠る二人の子供」。前者が1615年頃、後者が1612年頃の作品。
先ほどの狼に育てられた二人の子供といい、「眠る二人の子供」も、幼いキリストとヨハネも、良く似ている。「眠る二人の子供」はルーベンスとは仲がよかったが早世した兄の遺児二人の絵らしい。ルーベンスはこの二人の兄弟の後見人になって面倒を見たという。ルーベンスの子供はこの子供の絵をいつも下敷きにしているのかと思うほどに雰囲気がよく似ている。そして愛らしい。私はあまり好みではないが、このふくよかな子供の容姿がルーベンスの人気の秘密であろう。子供への愛情が十分感じられる。あるいはこの時期、これほど克明に子供を対象に絵を描くことがあったのだろうか。
「聖母子と聖エリザベツ、幼い洗礼者ヨハネ」の絵だが、聖母子に光があたりこの二人が輝いているのは宗教画としては理解できる。しかしマリアの若々しさに較べて、ヨハネは母親のエリザベツのあまりに年老いた容姿に部外者の私は少々唖然とした。ほぼ同年代の子供二人の母親としてはあまりに差があり過ぎる。ラファエロにも同様の絵があるのだが、これほど差はつけていなかった。ヨハネはキリストと同様に光があたっている。4人の登場人物の内3人に絞られた画面構成には驚く。
もうひとつ、エルグレコでもそうだったが、マリアの乳房の非現実感、ギリシャ神話の裸体に比べ、あまりに非現実的過ぎるのは宗教的な観念=聖母マリアの聖性のなせる業なのかと思った。同時に幼いキリストとヨハネもよく見ると、ちょっと現実離れしすぎていないだろうか。子供は福々しいとはいえ、こんなにもぶよぶよしているだろうか。この時代の理想像としての子供の姿態かもしれない。あるいは強調してるのかもしれない。子供に対する過剰な思い入れが子だくさんだった画家にはあるのかもしれない。
子供については、少々類型化、あるいは過剰な思い入れに陥ったように私には思えるのだが、どうであろう。