Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

期限切れの「極厚ビーフジャーキー」と「チーズタラ」

2013年04月03日 23時38分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 妻が缶詰や乾麺などを入れている棚を整理していて奥のほうから、11ヶ月前に賞味期限切れとなっていた「極厚ビーフジャーキー」と「チーズタラ」を見つ出した。ビーフジャーキーは販売者が山形県になっており、チーズタラは八王子になっている。一年以上前で山形に行ったのはどこだったか覚えていない。2011年の秋に奥入瀬渓谷に行っているが、行きも帰りも山形は通っていない。往復東北新幹線を利用した。

2012年8月に仙台に行っているが、それではすでに賞味期限切れのものを販売していたことになりおかしい。それ以前だといつだったか見当がつかない。あまり詮索してもしょうがない。
 そしてそのまま捨ててしまうのももったいない気がしている。明日か明後日あたり少し食べてみようかと思っている。ビーフジャーキー、酒の肴には悪くない。私はウィスキーに合うと思っている。

 普段このような乾き物に類したものはあまり食べないし、妻は廃棄すべきだと主張している。多分窒素封入のパック。油が酸化してしまっていれば、食べないほうがいいのはよくわかっている。しかし酒の肴となるとどうも食い意地が‥。やはり私の年代では、食べ物を捨てるということになるとまず抵抗がある。生ものならばいざ知らず、食べられるものはとりあえず口に入れて、それから判断しないと気がすまないのだ。

 下痢でもして他人に馬鹿にされてもこれは治りそうもない習性だ。


雨と風

2013年04月03日 12時05分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


 雨は人を家に閉じ込める。そして内省的にする。
 だからといって読書が進む時もあるが、そうでない場合も多い。しかし、周囲の雨や風の音に敏感になる。自然に対する感覚が鋭敏になる。
 小さい頃、学校に通う以前だったが、木造の長屋に住んでいた頃、雨や風の日はその音や雰囲気が怖かった。雨の降り続く時のガラス戸からの視界に映るものや風の音は不気味であった。天井から押しつぶされるような圧迫感を感じた。皮膚がベタベタして、五感のすべてが「不快」という信号を私の脳に送り続けるようだった。それでも外を見ることは止めなかった。止められなかったといった方が当たっている。
天候は、動物としての私の身体に始原の頃の警戒の記憶、恐怖の記憶を刻み込んでいるかのようだ。本能という形で。
 都会で生活をしていて、学生だった頃や勤めに出ていたときは雨だろうが風だろうが、そして台風だろうが、そのような自然現象をまったく考慮することなく学校や職場に出向かなくてはならなかった。そして頑丈な家屋に住まいして、仕事に疲れた身体を小さな空間に押し込めることが日常化していると、警戒や恐怖の感覚も薄らいでしまうようだ。天候に対する本能のような感覚は、意識の底に押し込めていなくては生きていけないのだ。
 私はひょっとして他人よりもそんな自然に対して自覚的に感覚を研ぎ澄ませているのかもしれないと思うことが多々あった。夜風呂に入りながら、あるいはベッドの中で、不安や恐怖が先にたったり不快な念がありつつも、雨・風の音を聞くのが好きだ、自然に身をひたしているようで惹かれる、と言ったとき、多くの同僚は不思議な顔をしていた。ある者は、「小心者」と私をからかった。またある者は、「マザコン」と言い放った。自然=母親の胎内への回帰願望と短絡したのだ。

 昨年4月から仕事を離れて、「自分の都合で時間を差配しているという錯覚」の中に身をひたしていると、今まで意識の底に押し込めていたこの感覚が大きく頭をもたげてくる。これまで以上に私は自然の発する音などのシグナルに敏感になっている自分を発見した。
 昼間家にいて、雨や風の音をじっくりと不快な信号を脳に送り続けている自分を他人の目で観察している自分を見つけることがある。そのようなとき、自分の意識が、狭い空間に閉じこもっているだけでなく不安げな空や、雲に隠れた都心の高層ビルのさらに上空に上昇しながら都会を俯瞰しようとしていることに気付いた。自然というものに自分が融けていく感覚にも似ている。
 幼い頃、雨・風の強い日に自宅から庭や空を飽きずにながめていた自分は、ひょっとしたらこんな感覚も味わっていたのかもしれない。今ではもうすっかり忘れてしまった。

 これからどのくらい生きているかわからない。自覚的に人や自然や社会とかかわっていられる時間はさらに短いだろう。そんな中で、自然に対する畏怖や恐怖などといった本能とも呼ばれるような感覚が、少しずつ蘇ってくるのだろうか。それとも今この61歳という一瞬の時によみがえっただけで、また少しずつ意識の下に埋もれていくのだろうか。そこら辺の変化を味わってみるのも、老いを相対化する方法なのかもしれない。時間を自分のサイクルと自然のサイクルに合わせて行くのが、たとえそれが錯覚だとしても、自分の老いの相対化の契機となると信じている。