Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ルーベンス」展感想(その3)

2013年04月22日 23時13分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ぼやぼやしているうちに肝腎のルーベンス展は21日に終了してしまった。しかしやはりまだ書き足りないことがあるので、記してみることにした。

   

 これらの作品は、「トレ・デ・ラ・バラードのための連作とルーベンスの油彩スケッチ」という長い題名がついている。スペイン王フェリペ4世の依頼による、トレ・デ・ラ・バラードという名の館を飾る絵画として注文された122点の連作。ルーベンスとその工房の担当は62点、オウィディウスの「転身物語」から題材をとった古代神話を表した作品。14点がルーベンスの作として認められているそうだが、今回はこの6点が展示されている。
 さらに下の「シルウィアの鹿の死」もフェリペ4世の依頼による狩猟をテーマとした8点の連作の内の1点。
 ヘラクレスの神話の1点を除きいづれも劇的な一瞬の動きを見事に捕らえていると思った。
 どれもが油彩といえども下絵として製作されたものであるが、完成された作品よりもとても生き生きとしていると思う。ドラマチックなロマン主義の絵画の先駆けのような風にも感じるのだが、どうであろうか。
 最初の絵は、いづれも物語のもっとも劇的な部分を、二人の男女だけを浮き立たせて見事に物語全体を象徴していないだろうか。物語のすべての要約がここに定着している。見事な場面設定だと感じた。この劇的な場面設定がルーベンスの人気のひとつなのだと思う。
 そしてながれるような筆致が魅力だと思う。完成品よりもずっと動的で、劇的で、それでいて瞬間を切り取ったときの対象物をきりっと切り取る画家の的確な目が羨ましい。動物の絵に難点があるという人もいるようだ。確かに「シルウィアの鹿の死」を見ても犬が犬らしくもないのだが、それでも実に生き生きとしている。
完成された作品も魅力たっぷりだが、このような下絵に画家の真骨頂を見るのもまた楽しいのではないだろうか。



 さて今回の展示では「聖母被昇天」は版画のみが展示されている。この版画は1624年ごろの作らしく、元の教会堂の絵は1618年頃の完成とのこと。
 残念ながらこの絵の実物を見ることができないのだが、それでも教会堂の絵とこの版画とを較べると面白い。同時にこの版画の完成度はとても高いのではないか、と感じた。
 天上から聖母マリアを迎えるためにキリストが書き加えられ、聖母マリアの目の天上を見上げる視点がより強調されたりしているようだ。
 マリアの上に向かう動的な動きが強調されていて、見上げると本当に上に向かって上昇しているようにも見える。エル・グレコの死より10数年あとの作品だが、エル・グレコとはまた違った描き方で上方への動きが誇張された人物像ではないがわかりやすく描かれている。
 それは、下に描かれた使途たち、それも男の使徒たちの大仰とも取れる上方に向かって差し上げられた手によって表されている。まるでベクトル表記の矢印のように天上を指している。はじめはこの手が少し大げさに見えたのだが、下から見上げてみるとそんなにわざとらしくは見えないから不思議だ。見る人の視線を常に意識している画家の目がここにあるように思える。
 実際の教会堂の絵も動きがあるし、多くの人を魅了したらしいが、私はこの版画もとても気に行った。

 一方で気になることもある。それはマリアの顔がちょっと現実的過ぎる嫌いがあること。多分ルーベンスは聖書の登場人物は現実の身近な人間の顔を書いたらしいのだが、あまりに生々しすぎるのではないか。祭壇画としては、仏像の表情などに見慣れた我々は個性が表に出すぎているように思える。
 もうひとつは、実際の祭壇画とは違ってマリアの上にキリストを描いたことによって、マリアの視線、そして下に描いてある使徒たち特に男の使徒の視線がおかしくなってしまっているのではないだろうか。キリストがいなければマリアや使徒たちの視線は、この版画で言えば右上方に向かって一致している。多分そこに描かれていないが神ないしキリストがいるのであろう。そこを見つめている。神を言祝ぐ視線である。
 しかしキリストをマリアの頭の上に加えたためにマリアをはじめ、下の登場人物のたちの視線もキリストの方を、これまでよりも上方に向かわなければならなかったはずだ。視線だけでなく顔の向きも。ところがそれをしていないためマリアの登っていく先、あるいはキリストを登場人物が見ていないのだ。これはとても残念な気がする。
 ドラマチックな場面設定と陰翳の具合のすばらしさが半減しているように感じてしまう。


横浜美術館「賛美小舎」-上田コレクション展(その2)

2013年04月22日 20時39分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 武田州左(たけだくにさ、1962年生)という画家の作品、似た様な作品が並ぶが決して飽きない。解説にもあるように赤い太い線が生命のあふれ出す奔流のような、あるいは地下の地球の深部の対流を思わせるような流れが特徴である。原色の赤が実に生命感溢れる色彩として表現されている。そして屏風や掛け軸といった古来のキャンパスに描いているのが特徴。そして何より仕上げが丁寧だ。職人芸のようにきれいに塗って仕上げている。普通は見ることもないキャンパスの脇も色彩が連続している。私は現代アートの多くが細部や仕上げに無頓着で丁寧でない作品が多く目につくのでほとんどそれだけで悪い評価を下してしまう。この作者は丁寧な職人芸も併せ持つようでいて極めて好感が持てると感じた。


   

 石原友明(いしはらともあき、1959年生)の像は、球形を積み重ねた人体像。絵画というか設計図のような二次元の描画もあるし、同時に透明なプラスチック様の素材を利用した立体もある。通俗にながれる危険ととなりあわせのギリギリのところで踏みとどまっているような造形だ。今ひとつ色彩の横溢があれば良いのに、と最初は思った。しかし確かに何ゆえか心に残る。
 心に残るのは、モノトーンだからこそではないのか。色彩が溢れてはその情感は半減するのではないか、と思い始めた。それが何に由来するのかはわからない。しかし光と影の具合といい、今にも動き出しそうな造形といい、温かみのある画面が特徴だと感じた。


 残念ながらこの他の作家の絵や作品は私の理解を超えていたと思う。作品を鑑賞するのに、理解力が必要かといえばそんなことはないとしか応えようがない。直感のほうがより大事だと思うが、それでもその直感を支えるものが無いといけない。この歳になってしまうと頭の柔軟性もなくなり、理解できる作品はどんどん少なくなっていく。時折このような現代美術に親しむことで頭の柔軟性を維持していこうと思った。