あの日、私は朝一番で横浜から仙台の松島に向かった。朝出るとき関西で大きな地震があったらしいという情報はテレビで得ていた。横浜にいてその地震を感じたかどうかはっきり記憶していない。たぶん目が覚めてテレビをつけたような気はするのだが‥。
朝ごはんを食べながらテレビを見たが情報がはっきりしなかったことはよく覚えている。
事前に購入した新幹線に飛び乗ってからは、地震の情報から遮断された。新幹線の中ではテロップで地震で被害が出ているという程度のことしか伝わってこない。今のようにスマホでニュースを見るということはできなかった。
仙台、それも松島に行ったのは、ちょうど政令指定都市の建設職場の自治労の労働組合の協議組織があり、その幹事会の日であったからだ。仙台・札幌・東京・川崎・名古屋の幹事は定刻に集まったが、関西の参加者が来ない。
テレビで夕方になってようやく神戸の街が燃えている画面が写り、「これた大変なことになった」と話をしていたが、事態の重大さはその時の想像を超えていたと思う。夕食後にようやく事態の重大さがわかって来て、皆深刻な表情になった。建設職場に在籍している人ばかりだから、都市基盤に重大な損害があること、その復旧に大変な労力がかかることは皆が直感した。
予定していた宴会も乾杯だけにとどめて、その夜は早めに就寝することにしたが、皆眠れずテレビにかじりついていた。その時も、なぜ火災の消火ができないのか、高速道路がなぜ倒壊しているのか、またその範囲はどの程度か、港湾施設の被害がどのくらいか、鉄道の状況は、道路・下水道などの被災は、庁舎は大丈夫かなどなど疑問や知りたいことが山ほどあった。
そして何より参加予定者の安否、そして建設関係職場の組合員の安否、市役所機能の状況など、入ってこない情報にみないらだっていた。
翌朝決めなくてはいけないことは事務局原案通りに暫定的に決め、今は何をしなくてはいけないか、を相談した。やれることは限られている。何はともあれ、仲間の安否確認に事務局が全力を挙げることと、関西以外の都市では自治労中央や単組の取り組み以外にも別途カンパを集めること、復旧ボランティアの募集があれば率先して組合員に働きかけること、関西に行く状況が出来れば三役を中心にできるだけ早く駆けつけて激励にいくこと、自治体を通した支援にも全力で取り組むなどのことを確認したと記憶している。そして予定していた松島の見学も切り上げて解散した。
私の支部はできたばかりで、自治労連との熾烈な組織戦争を行っている最中。60人になったばかりの小さな支部であった。行動スタイルも交渉スタイルも手探りでようやく軌道に乗り始めたばかりであった。が、そんなことは言ってられない。自治労中央とそれを応える単組のカンパのほかに、仙台で決めた独自カンパの取り組みはまだ力量が足りなかった。それでまだ満足に貯まっていない、なけなしの支部費から捻出することにした。
一番うれしかったことは、震災の3日後、私が仙台から戻った翌日、当局が私たちの18ある職場にある公用車から二台4名を選んで給水車・支援物資・医療援助の部隊の先導役として派遣すると決めたときだ。わずか2~3時間の労使協議に基づく募集で私どもの組合員が率先して手を挙げてくれたことであった。この労使協議に時間をかけている暇はなかったので、ごく短時間で派遣要領を決め、要望事項はいくつか盛り込ませることができた。少数派の私たちの方が的確に前向きな内容で必要なことを申し入れることができたと記憶している。小回りが利くのだ。私たちなりに確立した当局交渉のスタイルが試されたと思う。
どこの組合が、というような先陣争いなどをしていてはいけないのは十分承知はしているが、それでも役員としてはホッとした。
夜中の出発式で部隊を見送った。有線で入ってくる途中経過を大阪の手前まで聞くことはできた。夜通し、そして翌日の昼までかかって横浜から神戸まで、渋滞・混乱で食糧・燃料の補給にも不安があるなか、20数台の部隊を先導してくれた。神戸に入って以降は連絡手段はなく、あとは派遣した係長と運転手役の職員の判断に任せるしかなかった。帰る予定の日の夜遅く、大阪を出たところで連絡が入り、無事任務が終わったと聞いたときはホッとした。この時の報告をもとに以後の横浜市のそれなりにスムーズな支援体制の先鞭をつけてくれた。
私自信は直接の現地支援には参加しなかった。組合の支援ボランティアの手配師のようなことに徹した。同時に当局サイドの支援部隊の動向は当局からつぶさに連絡を受けた。緊張の1か月であった。1か月が過ぎてようやく全体の流れがスムーズになったような気がして、緊張から解放されたと記憶している。現地入りしたのは夏になってから、組合の視察団・激励団の一人として参加して、市庁舎の崩壊現場、高速道路の倒壊現場、長田の避難所、港湾施設の被害箇所を視察し、建設職場での課題などを聞き取り調査した。
こんなことを19回目の1月17日の今日思い出している。たぶん私の頭の中の記憶も次第になくなっていくであろう。労働組合として取り組んだ中身も当事者がいなくなれば組織としての記憶も薄れていくだけであろう。災害時に何をしなくてはいけないか、という問題は日常の業務や組合活動の中身をキチンと遂行していれば、おのずとわかるものである。あの震災が起きたとき、だれもが社会人として初めての経験であったと思う。どこの職場でも、だれでも。
災害時マニュアル、突発の事故時のマニュアルというものが必要だということは確かだ。事前の訓練も必要である。しかし何より必要なことは、どんな災害でも日常の業務の延長にしか対処方法はないということである。日常の業務をどれだけ誠実にこなしているか、ということでおのずと道は開けると実感した。これは自治体の業務だけではない。企業でも家庭でも地域でも、そして労働組合でも同じではないだろうか。
朝ごはんを食べながらテレビを見たが情報がはっきりしなかったことはよく覚えている。
事前に購入した新幹線に飛び乗ってからは、地震の情報から遮断された。新幹線の中ではテロップで地震で被害が出ているという程度のことしか伝わってこない。今のようにスマホでニュースを見るということはできなかった。
仙台、それも松島に行ったのは、ちょうど政令指定都市の建設職場の自治労の労働組合の協議組織があり、その幹事会の日であったからだ。仙台・札幌・東京・川崎・名古屋の幹事は定刻に集まったが、関西の参加者が来ない。
テレビで夕方になってようやく神戸の街が燃えている画面が写り、「これた大変なことになった」と話をしていたが、事態の重大さはその時の想像を超えていたと思う。夕食後にようやく事態の重大さがわかって来て、皆深刻な表情になった。建設職場に在籍している人ばかりだから、都市基盤に重大な損害があること、その復旧に大変な労力がかかることは皆が直感した。
予定していた宴会も乾杯だけにとどめて、その夜は早めに就寝することにしたが、皆眠れずテレビにかじりついていた。その時も、なぜ火災の消火ができないのか、高速道路がなぜ倒壊しているのか、またその範囲はどの程度か、港湾施設の被害がどのくらいか、鉄道の状況は、道路・下水道などの被災は、庁舎は大丈夫かなどなど疑問や知りたいことが山ほどあった。
そして何より参加予定者の安否、そして建設関係職場の組合員の安否、市役所機能の状況など、入ってこない情報にみないらだっていた。
翌朝決めなくてはいけないことは事務局原案通りに暫定的に決め、今は何をしなくてはいけないか、を相談した。やれることは限られている。何はともあれ、仲間の安否確認に事務局が全力を挙げることと、関西以外の都市では自治労中央や単組の取り組み以外にも別途カンパを集めること、復旧ボランティアの募集があれば率先して組合員に働きかけること、関西に行く状況が出来れば三役を中心にできるだけ早く駆けつけて激励にいくこと、自治体を通した支援にも全力で取り組むなどのことを確認したと記憶している。そして予定していた松島の見学も切り上げて解散した。
私の支部はできたばかりで、自治労連との熾烈な組織戦争を行っている最中。60人になったばかりの小さな支部であった。行動スタイルも交渉スタイルも手探りでようやく軌道に乗り始めたばかりであった。が、そんなことは言ってられない。自治労中央とそれを応える単組のカンパのほかに、仙台で決めた独自カンパの取り組みはまだ力量が足りなかった。それでまだ満足に貯まっていない、なけなしの支部費から捻出することにした。
一番うれしかったことは、震災の3日後、私が仙台から戻った翌日、当局が私たちの18ある職場にある公用車から二台4名を選んで給水車・支援物資・医療援助の部隊の先導役として派遣すると決めたときだ。わずか2~3時間の労使協議に基づく募集で私どもの組合員が率先して手を挙げてくれたことであった。この労使協議に時間をかけている暇はなかったので、ごく短時間で派遣要領を決め、要望事項はいくつか盛り込ませることができた。少数派の私たちの方が的確に前向きな内容で必要なことを申し入れることができたと記憶している。小回りが利くのだ。私たちなりに確立した当局交渉のスタイルが試されたと思う。
どこの組合が、というような先陣争いなどをしていてはいけないのは十分承知はしているが、それでも役員としてはホッとした。
夜中の出発式で部隊を見送った。有線で入ってくる途中経過を大阪の手前まで聞くことはできた。夜通し、そして翌日の昼までかかって横浜から神戸まで、渋滞・混乱で食糧・燃料の補給にも不安があるなか、20数台の部隊を先導してくれた。神戸に入って以降は連絡手段はなく、あとは派遣した係長と運転手役の職員の判断に任せるしかなかった。帰る予定の日の夜遅く、大阪を出たところで連絡が入り、無事任務が終わったと聞いたときはホッとした。この時の報告をもとに以後の横浜市のそれなりにスムーズな支援体制の先鞭をつけてくれた。
私自信は直接の現地支援には参加しなかった。組合の支援ボランティアの手配師のようなことに徹した。同時に当局サイドの支援部隊の動向は当局からつぶさに連絡を受けた。緊張の1か月であった。1か月が過ぎてようやく全体の流れがスムーズになったような気がして、緊張から解放されたと記憶している。現地入りしたのは夏になってから、組合の視察団・激励団の一人として参加して、市庁舎の崩壊現場、高速道路の倒壊現場、長田の避難所、港湾施設の被害箇所を視察し、建設職場での課題などを聞き取り調査した。
こんなことを19回目の1月17日の今日思い出している。たぶん私の頭の中の記憶も次第になくなっていくであろう。労働組合として取り組んだ中身も当事者がいなくなれば組織としての記憶も薄れていくだけであろう。災害時に何をしなくてはいけないか、という問題は日常の業務や組合活動の中身をキチンと遂行していれば、おのずとわかるものである。あの震災が起きたとき、だれもが社会人として初めての経験であったと思う。どこの職場でも、だれでも。
災害時マニュアル、突発の事故時のマニュアルというものが必要だということは確かだ。事前の訓練も必要である。しかし何より必要なことは、どんな災害でも日常の業務の延長にしか対処方法はないということである。日常の業務をどれだけ誠実にこなしているか、ということでおのずと道は開けると実感した。これは自治体の業務だけではない。企業でも家庭でも地域でも、そして労働組合でも同じではないだろうか。