



東京都現代美術館に初めて入った。「吉岡徳仁-クリスタライズ」展が面白いと聞いていた。私は初めて聞く名前だが、1967年生まれというから今年47歳になる。公立美術館では初めての大規模個展となるとのこと。
白一色に飾られた展示室にまずびっくり。ウォーターブロック、白鳥の湖-結晶の絵画、ローズ、蜘蛛の糸、虹の教会、レインボーチェア、ハニーポップと7つの作品が一部屋ずつに配されている。
水とガラス・プリズムと光と結晶、これがこの作家の作品のコンセプトになるようだ。プリズムによる光の分光がもたらす微かな色の配合が美しい。また何の結晶かなのかは明らかにされないが、糸などに結晶化した造形などが作品として展示されている。結晶化にあたり音楽という振動を与えたりする作為などで自然結晶の形状を変化させる試みなどもある。
「「クリスタライズ」には、「自然のエネルギーを結晶化し作品を生み出す」という意味が込められている」という。
自然から生み出されるという言葉、自然の力という言葉が語られるが、この「自然」という言葉が独特なイメージである。そして人為と自然が分離していない。チャイコフスキーの白鳥の湖を鳴らしながら結晶作用にどのように作用するのか、という命題からは「自然」と「人為としての音楽」が明確に分離した発想となっていない不思議な自然観が語られる。
「自然から生み出された、人間の想像を超えた造形。その作品は、人の心を動かす自然と、そこに潜むエネルギーに感応して、自らを造化します。それは、造形や技法という概念からの解放です」作者は語っている。

現代芸術というのは、不思議な芸術である。多様な表現媒体を駆使しているが、作品には多くの「言葉」が費やされることが多い。吉岡徳仁もそうである。作品自体の衝迫力もあるにもかかわらず、雄弁に言葉が書き連ねられている。言葉が、文字がなければ作品が成り立たないと、その作者が思ってしまう根拠はいったい何なのだろうか。
作品自体に語らせるということは現代では不能なのだろうか。現代芸術を見るとき私はいつもこのことが頭の中を駆け巡る。
しかもその言葉が不思議な難解さで迫ってくる。今回も「自然」という言葉は先ほども言ったように「人為」と明確に分離されていない。私の中では自然と人為は対立概念である。人間の作曲した音楽をかけて空気の振動を与え、結晶化に影響が出るとして、それが自然結晶の形状を変化させる試み、これも含めて自然過程と呼んでいる。
私なら人為を極力排除することが、「自然」といものの成り立つ根拠と解釈してしまう。ここが不思議だ。そしてこの不思議が、現代芸術なのかもしれない。あるいは現代芸術そのものの不可解なのかもしれない。
自然という言葉以外にも様々な概念が、私の概念と通じ合わないところまで変化してしまったのだろうか。そうかもしれないが、概念が違っていても作品の衝迫力は世代を超えて人に感動を与えるものと私は信じている。
今回の展示でも、虹の教会・蜘蛛の糸・ローズに光の美しさを感じた。光の力を手に入れたいという作者の強烈な意志を感じた。その力と意志に「言葉」が必要であったろうか。饒舌に語られる「言葉」は私には不要・障害に感じられる。なのになぜあのように「言葉」が氾濫しなければならないのか、作者が「語り尽くしたい」意志とは何なのか、そこまで作品を固定化してしまいたい意志とは何なのか、そこが私には理解できない。このもどかしさが募ったまま会場を後にした。
数時間が立ち、今チラシや写真を見ていても作品の印象は脳裏に明確に残っている。しかし言葉は残っていない。カタログに印刷されたままである。その言葉を読んでも作品は浮かんでこない。表題だけで十分なのである。そして脳裏に浮かんでくる作品に対しては肯定的な評価がなされている。
なお、時間がなかったけれども常設展も駆け足で見てきた。1階のフロアーしか見ることができなかった。その中で浜田知明の「初年兵哀歌 歩哨」(1954年)と鶴岡政男の「重い手」(1949年)が展示されていた。この美術館の所蔵であったとは知らなかった。



