このブログは、たわいもない日記風のエッセイと、美術館・博物館・音楽会・各種講座・旅行などの感想とが、綯い交ぜになっている。わざとそうしている。一日に日記風と感想とが一つずつ交互に記載するのがいいのだが、そうでない場合もある。
私なりの構えた文章と日記風の文章とどちらか一方だけでは、自分でも疲れるし、嫌になってしまうから。もともと一つのことに入れ込むタイプの人間ではない。長期に結果として生涯こだわったものがあるとすれば、人間の作る組織というものに対する関わりである。私の場合はそれが社会運動としての労働組合であったと思う。政治組織はかなり近いところでジッと批判的に、そして自分のこだわりにしたがってある組織の崩壊と解体過程を見つめてきた。それが団塊の世代のもっとも時代の先端的な課題を探ろうとしていた組織だとその意志と意気に感じていたからだ。彼らは彼らなりに見事に今でも身を処していると思っている。
しかし私個人の趣味としては一つのことに没入して一生ものというものはないし、これからも無いと思う。その様なものがあるとすれば、エッセイであり、評論である。これは自分を見つめるという観点から手放せない。また「芸」としての趣味はどうも好かない。勉強はして見たいし齧ってみたいとは思うが、それに自分をすべて同値することには耐えられない。
生涯を終わるにあたって、自分が芸や趣味をとことん極めたことに満足を得るか、あるいは極めなかったことに後悔するだろうか・・。私はたぶんそのことは思い浮かべないと思う。
あるとすれば人間の集団に対する寄り添い方への自分なりの誠実さを追求したか、ということに終始する感慨が、生涯を閉じるときに頭を駆け巡るかもしれない。それについては今もこれからも、自分なりに突き詰めてはいる。こだわりである。
さて、そんな大上段に構えた話とはまったく関係のないところに話を持っていく。初めの思いつきの時には、出だしの話とこれから記載する話は繋がっていたのだが、その繋がりの環をキーボードを打っている間に忘れてしまった。忘れたということは、大した意味のない、単なる牽強付会・思い付き程度の論理だったのだろうから、忘れてもしょうがない。
ここから本題である。手帳の話に、生涯を終わるときの想定エピソードなど鼻から関係なかった。そしてこんなに長文など必要ないのだが、いつの間にかA4二枚になってしまった。
退職して、おととしの5月だったと記憶しているが、このスマホを購入した。そして現役の頃と違い手帳に予定を記すことも少ないと思い、スマホのスケジュール機能を利用して画面でスケジュール管理をしてきた。
ところが、各種講座を受講するようになったり、退職者会の役員を引き受けるようになったり、同窓会の言いだしっぺになったりするうちにこのスマホのスケジュール管理が不便になってきた。
スマホは常に身に着けて持ち歩くので、スケジュールを見たり、決まった予定を入力するのは簡単で楽である。これはとてもいいと思う。ところが、電話をしながら友人とスケジュールの話をしたり、予定を組むときに戸惑ってしまうのだ。
予定表を見ながら電話をする、という行為ができない。電話をしているときはスケジュール表が参照できないのである。
手帳ならば家に忘れてこない限り、手帳を見ながら電話をしたりメールを打つことができる。このことはもとより頭にはあったのだが、これほどスケジュールが立て込んでくるとは思いもしなかったというのが本当のところである。
しかし今更1500円近くの金額を掛けて、現役の頃のような手帳を購入する気にもならない。12月から一か月ほどかけて手帳のコーナーを物色していたら、630円で文庫サイズの普通のノートのような表紙の手帳を見つけた。一週間見開きである。100円ショップのビニールの文庫本用のカバーすればちょっとした手帳に早変わりする。あるいは文庫本用の米沢織のカバーをすれば完璧にこだわりの手帳に見える。
安いカバーと合わせて735円の贅沢を今年はしてみることにした。問題は常にこれを持ち歩く癖を身に着けないといけないということだ。
いつもの17リットル用の小さなリュックに入れておけば良いというわけではない。妻と出かけたりする時や、団地の管理組合のお手伝いの打ち合わせやちょこっとした外出の時にも、この手帳を必ず身に着けて持参しなければ意味がない。もっと軽い別の小さなバッグなどを持つときにも忘れないようにすることが必要だ。
そして昨晩2時までかかって、この新しく購入した手帳に3月末までの講座の予定などをごくごく小さいラベルに印刷して、これを手帳に貼って見た。
見映えはなかなかいい。ハガキ大の用紙に39枚ものラベルがある型番も見つけた。とても重宝した。
これでスケジュール表を見ながら日程設定ができる。いちいちいったん電話やメールを閉じてスケジョール表を確認してから、再度電話をかけなおしたりする面倒がなくなった。何より相手に迷惑を掛けなくて済む。時間もかからない。先ほど記載したようにあとは常に持ち歩く癖をはやく身に付けることが肝心である。
私なりの構えた文章と日記風の文章とどちらか一方だけでは、自分でも疲れるし、嫌になってしまうから。もともと一つのことに入れ込むタイプの人間ではない。長期に結果として生涯こだわったものがあるとすれば、人間の作る組織というものに対する関わりである。私の場合はそれが社会運動としての労働組合であったと思う。政治組織はかなり近いところでジッと批判的に、そして自分のこだわりにしたがってある組織の崩壊と解体過程を見つめてきた。それが団塊の世代のもっとも時代の先端的な課題を探ろうとしていた組織だとその意志と意気に感じていたからだ。彼らは彼らなりに見事に今でも身を処していると思っている。
しかし私個人の趣味としては一つのことに没入して一生ものというものはないし、これからも無いと思う。その様なものがあるとすれば、エッセイであり、評論である。これは自分を見つめるという観点から手放せない。また「芸」としての趣味はどうも好かない。勉強はして見たいし齧ってみたいとは思うが、それに自分をすべて同値することには耐えられない。
生涯を終わるにあたって、自分が芸や趣味をとことん極めたことに満足を得るか、あるいは極めなかったことに後悔するだろうか・・。私はたぶんそのことは思い浮かべないと思う。
あるとすれば人間の集団に対する寄り添い方への自分なりの誠実さを追求したか、ということに終始する感慨が、生涯を閉じるときに頭を駆け巡るかもしれない。それについては今もこれからも、自分なりに突き詰めてはいる。こだわりである。
さて、そんな大上段に構えた話とはまったく関係のないところに話を持っていく。初めの思いつきの時には、出だしの話とこれから記載する話は繋がっていたのだが、その繋がりの環をキーボードを打っている間に忘れてしまった。忘れたということは、大した意味のない、単なる牽強付会・思い付き程度の論理だったのだろうから、忘れてもしょうがない。
ここから本題である。手帳の話に、生涯を終わるときの想定エピソードなど鼻から関係なかった。そしてこんなに長文など必要ないのだが、いつの間にかA4二枚になってしまった。
退職して、おととしの5月だったと記憶しているが、このスマホを購入した。そして現役の頃と違い手帳に予定を記すことも少ないと思い、スマホのスケジュール機能を利用して画面でスケジュール管理をしてきた。
ところが、各種講座を受講するようになったり、退職者会の役員を引き受けるようになったり、同窓会の言いだしっぺになったりするうちにこのスマホのスケジュール管理が不便になってきた。
スマホは常に身に着けて持ち歩くので、スケジュールを見たり、決まった予定を入力するのは簡単で楽である。これはとてもいいと思う。ところが、電話をしながら友人とスケジュールの話をしたり、予定を組むときに戸惑ってしまうのだ。
予定表を見ながら電話をする、という行為ができない。電話をしているときはスケジュール表が参照できないのである。
手帳ならば家に忘れてこない限り、手帳を見ながら電話をしたりメールを打つことができる。このことはもとより頭にはあったのだが、これほどスケジュールが立て込んでくるとは思いもしなかったというのが本当のところである。
しかし今更1500円近くの金額を掛けて、現役の頃のような手帳を購入する気にもならない。12月から一か月ほどかけて手帳のコーナーを物色していたら、630円で文庫サイズの普通のノートのような表紙の手帳を見つけた。一週間見開きである。100円ショップのビニールの文庫本用のカバーすればちょっとした手帳に早変わりする。あるいは文庫本用の米沢織のカバーをすれば完璧にこだわりの手帳に見える。
安いカバーと合わせて735円の贅沢を今年はしてみることにした。問題は常にこれを持ち歩く癖を身に着けないといけないということだ。
いつもの17リットル用の小さなリュックに入れておけば良いというわけではない。妻と出かけたりする時や、団地の管理組合のお手伝いの打ち合わせやちょこっとした外出の時にも、この手帳を必ず身に着けて持参しなければ意味がない。もっと軽い別の小さなバッグなどを持つときにも忘れないようにすることが必要だ。
そして昨晩2時までかかって、この新しく購入した手帳に3月末までの講座の予定などをごくごく小さいラベルに印刷して、これを手帳に貼って見た。
見映えはなかなかいい。ハガキ大の用紙に39枚ものラベルがある型番も見つけた。とても重宝した。
これでスケジュール表を見ながら日程設定ができる。いちいちいったん電話やメールを閉じてスケジョール表を確認してから、再度電話をかけなおしたりする面倒がなくなった。何より相手に迷惑を掛けなくて済む。時間もかからない。先ほど記載したようにあとは常に持ち歩く癖をはやく身に付けることが肝心である。