3日は例年、箱根駅伝の復路を横浜駅傍の青木橋付近で見学する。
特に応援している学校があるわけではない。上位に入る大学の多くの指導者・走る学生は割と明るい。他の競技団体のことはあまりわからないが、少なくともひどい前近代的な指導はあまり感じられないところに好感がもてるような気がする。そうであってほしいと思っている。
今年は特に理由はないが、なんとなく行きそびれた。午後になってから妻が今日も初詣に行ってみたいと言い出した。
思いついたのが、南区の弘明寺観音と、港南区の永谷天満宮と日限地蔵尊。
ということでまず京急で弘明寺駅で降りて、弘明寺に行ったがなんと並んでいる人が4列で200メートルを超えていた。人が多いとは聞いてはいたが、3日にこんなに並ぶとはびっくりして境内に入るのは断念。横浜でも数少なくなった活気のある商店街の一つである弘明寺商店街を歩いて地下鉄弘明寺駅まで歩いた。途中大岡川を渡るのであるが、その橋では珍しくなった猿回しが行われて人だかりがしていた。元気のある商店街として有名でも、昔ながらの風物を継続する努力が必要なのであろう。
元国大前の敷地前にある地下鉄弘明寺駅から上永谷駅まで行って永谷天満宮に詣でた。ここを訪れるのは私は実に7年ぶり。7年前はこのすぐ近くに職場があったので時々境内を見ながら現場周りをしていた。
ここも人が多く、20分近く並んだ。しかし境内でふるまわれた甘酒は美味しく感じられた。また境内で古い破魔矢やどを燃やしていた。関係者が一生懸命に参拝のため並んでいる人のすぐ横で、苦労しながら分別して材木と紙を選り分けていた。見ていると大量のものを仕分けしている。ビニールや金属など燃やせないものが大きな袋いくつにも入れられ、テントの中にびっしり。丁寧な作業はなかなか好感が持てた。
ここで時間がかかったので、日限地蔵尊は断念して、今年の初詣はこれで終了とした。
懐かしい上永谷駅周辺を30分ほど歩いてみた。いくつかコーヒーカップや湯呑みを購入した九州の陶器を販売している小さな陶器店兼喫茶店を覗いてみた。まだ昔と変わらない店構えで健在のようである。話好きの店主も元気そうであった。探し求めていたご飯茶碗は見つからず店を出た。このような小さくてもいい物がある民芸陶器の店は得難い。
駅前の4軒程のケバケバしいパチンコ店が妙に目に付いた。ことに今回びっくりしたのは視覚効果上かえって読みにくい朱色地に白字のネオンサインなど目に痛い巨大看板が現れていた。目がちらついてつらい。色彩の景観からは何らかの検討の必要性を強く感じる。見つめると残像が強烈に残り、目をそらすと一瞬だが、他のものが見えなくなる。はっきり言って危険である。
駅前の植え込みに植えられ大きく成長した「藤」は、根元が相変わらずバス待ちや通行人の煙草やゴミのポイ捨て、子供の侵入でいじめ続けられている。今年もあまり花をつけずに過ぎてしまうのであろうか。この藤、1980年代初め、木がまだ若い頃は、バスターミナルを半周して一時見事な花を見せてくれたのだが‥。もったいないと思う。植えてからもう40年近くたった。囲いは景観上見苦しいが、お金をかける必要があるかもしれない。あるいは別の対策が考えられているのかもしれない。
この上永谷駅、駅前の造成工事が真っ盛りの1976年に開発区域の中に職場ができて移ってきた。採用されて2年目の時である。近くに野庭団地という巨大団地もできた。この駅が出来、駅前広場・バスターミナルが整備され、大型商業施設が進出してきた。環状2号線も開通し、上永谷駅がこれほどにぎわう駅・商業圏になるとは想像もできなかった。街の変わり様を実に31年間も見てきた。愛着のある町である。環状2号線に接続するもう一本の放射道路が完成すれば交通量がさらに増えると見込んでいる。通過交通が増えることで、この町はこれからどう変わるのであろうか。
この永谷村、永野村、野庭村などと言われた地域は、鎌倉時代から行く筋かの鎌倉道が近くにとおり、交通の要でもあり、江戸時代には近くに戸塚宿を控えた東海道の助郷村として潤ったり疲弊したりを繰り返したらしい。
永谷天満宮にある各種の境内整備に伴う石碑に、当時仕事柄おつきあいをしてもらった町内会長・市会議員・老人会等の役員や企業の経営者などの懐かしい名前が刻まれていた。そのほとんどはすでに鬼籍に入っている。