寒い中、ジョセフ・クーデルカ展に出かけた。正午少し前に家を出たときは急に雲が出てきて日差しがさえぎられて寒さが厳しくなった。横浜駅に着いた頃には空のほとんどが雲に覆われていたが、東京駅に着いてみると雲は横浜の方角だけに見えて、快晴。ただし風が冷たく気温はほとんど上がっていなかった。
皇居一周のランナーはせ平日の昼間だけあってさすが少ないが、それでも竹橋まで歩く間に随分追い抜かれた。ほとんどが半ズボンであった。土日になるとランナーの数が多くて実に歩きにくい。私もジョギング・ウォーキングをするのだが、どうして皇居一周などという場所にこだわって走るのか、私にはまったく理解できない。
自宅周辺で必ずいいコースがあるはずである。無いわけが無い。人通りが少なく、散歩する人間に邪魔ではないコースはどこにでもある。皇居を走る、ということが走ることに箔をつけたり、走る意欲につながるような運動ならやらない方がずっといいよと余計な声を掛けたくなる。

さて、本題だがジョセフ・クーデルカ展、見に行ってとてもよかった。
まず初期の段階から私の好みの写真が並んでいる。特に「1初期作品」「2実験」は造形的な視点の作品で、惹かれた。造形と言っても演出による作品ではなく、目に入った光と影の交錯する瞬間を固定している。私の好きな撮影方法でもある。二重露光やレンズの多様、その他様々な複雑なテクニックなどは駆使していないようだ。西欧でも東欧でも、全世界的に行き詰っていた戦後の社会の閉塞感。冷戦構造や、国家の力による市民社会への抑圧や過剰な関与、その一方で工業化の進展にともなって発生する社会矛盾に対する不作為、これらにより息詰まる社会生活の中で、何かに縛られているような圧迫感、どの作品にもモノクロームの陰影に強く滲み出ていると感じた。あの重苦しい気分は日本という国にいても私は強く感じていた。これが世界性ということなのだろうと思う。
そして「5侵攻」という軍事介入への市民の抵抗の最前線での生々しい写真となる。しかし今回の展示ではこの写真は少ない。数は忘れたが10点に満たなかったと思う。しかしどれも視点がいい。市民の側の視点が生々しく伝わる。私も昔、高校2年の時だったが新聞の一面トップを飾った写真、戦車の上の兵士の無表情を装う顔と、抗議する市民の生きた目に、グッとくるものを感じた。その時の迫力が今も伝わってきた。
兵士と市民に肉薄しながらも、クローズアップだけではなくきちんと周囲の状況も切り取っていて過不足ない説明が構図上できている、と感じる写真である。あの緊迫した状況下で、しかも肉薄した距離であっても実に冷静な視点を確保していると感じた。
しかしこの写真家の真骨頂はチェコを脱出・亡命後の「6エグザイルズ」と「7カオス」ではないだろうか。多くの人は亡命によって、その芸術的な行き詰まりを示す場合が多い。
1970年代を通して撮影された「6エグザイルズ」を見ていて、この写真家、亡命という故郷喪失・アイデンティティー喪失によって浮遊する意識、疎外感の亢進にも自己をキチンと見つめ続けていると感じた。
この人が抱える「孤独を見つめる視点」が私の胸をうつ。撮影する対象が熱気ある不特定多数の大衆から、都会に寂しく行き来するひとりかふたりの被写体に移行していく。この移行、あるいは視点のあらたな獲得が実にスムーズだったのではないか。私なら新しい視点の獲得にきっと四苦八苦して放り出してしまうような内部葛藤をすると思うが、この作者はそれほど悩んだ形跡は見せていない。もともとの出発点の視点にそのまま戻ったような感じもする。
「侵攻」という報道写真のような世界に踏み込んでいってそこで自分を見失うことなく、元の視点をもって新しい「亡命者」という立場で、西欧の社会を見つめたという理解ができるのかもしれない。同じ目で東欧と西欧、両方に共通する国家や都市、社会の病理を見つめていたといえる。当時のチェコスロバキアからみれば憧れであったろう「自由」は「人間の顔をした社会主義」という合言葉に込められていたと思う。しかし手本とされた西欧の社会の病理は、どこかで東欧の社会の病理と共通であったはずだ。作者はそのことを自覚的に視点として抱えていたと思う。
1970年代から80年代に社会の底辺で、社会の病理を見つめ続けた軌跡がこのシリーズなのだろう。

さらに「7カオス」という1980年代以降の造形的な視点をもったパノラマ写真が素晴らしい。パノラマ写真の広がり・奥行きのある形を獲得することで、この作者の出発点の視点がさらに豊かになったように感じる。あるいは、反対にこの作者によってパノラマ写真の奥行きの広さが発見されたと言い換えてもいいかもしれない。
このシリーズにもはや人間はほとんど登場しない。あれほど「侵攻」で人間の極限の姿の一端を切り取ったにも関わらず、この地平では遺跡と都会と無機的な産業施設と自然の造形的な美に没入している。人間は施設や遺跡などを通して痕跡として自然に何らかの跡を残しているだけで、画面に躍り出てくることがない。それでも人間を感じさせる点が、このシリーズの魅力だと思った。

皇居一周のランナーはせ平日の昼間だけあってさすが少ないが、それでも竹橋まで歩く間に随分追い抜かれた。ほとんどが半ズボンであった。土日になるとランナーの数が多くて実に歩きにくい。私もジョギング・ウォーキングをするのだが、どうして皇居一周などという場所にこだわって走るのか、私にはまったく理解できない。
自宅周辺で必ずいいコースがあるはずである。無いわけが無い。人通りが少なく、散歩する人間に邪魔ではないコースはどこにでもある。皇居を走る、ということが走ることに箔をつけたり、走る意欲につながるような運動ならやらない方がずっといいよと余計な声を掛けたくなる。


さて、本題だがジョセフ・クーデルカ展、見に行ってとてもよかった。

まず初期の段階から私の好みの写真が並んでいる。特に「1初期作品」「2実験」は造形的な視点の作品で、惹かれた。造形と言っても演出による作品ではなく、目に入った光と影の交錯する瞬間を固定している。私の好きな撮影方法でもある。二重露光やレンズの多様、その他様々な複雑なテクニックなどは駆使していないようだ。西欧でも東欧でも、全世界的に行き詰っていた戦後の社会の閉塞感。冷戦構造や、国家の力による市民社会への抑圧や過剰な関与、その一方で工業化の進展にともなって発生する社会矛盾に対する不作為、これらにより息詰まる社会生活の中で、何かに縛られているような圧迫感、どの作品にもモノクロームの陰影に強く滲み出ていると感じた。あの重苦しい気分は日本という国にいても私は強く感じていた。これが世界性ということなのだろうと思う。


そして「5侵攻」という軍事介入への市民の抵抗の最前線での生々しい写真となる。しかし今回の展示ではこの写真は少ない。数は忘れたが10点に満たなかったと思う。しかしどれも視点がいい。市民の側の視点が生々しく伝わる。私も昔、高校2年の時だったが新聞の一面トップを飾った写真、戦車の上の兵士の無表情を装う顔と、抗議する市民の生きた目に、グッとくるものを感じた。その時の迫力が今も伝わってきた。
兵士と市民に肉薄しながらも、クローズアップだけではなくきちんと周囲の状況も切り取っていて過不足ない説明が構図上できている、と感じる写真である。あの緊迫した状況下で、しかも肉薄した距離であっても実に冷静な視点を確保していると感じた。
しかしこの写真家の真骨頂はチェコを脱出・亡命後の「6エグザイルズ」と「7カオス」ではないだろうか。多くの人は亡命によって、その芸術的な行き詰まりを示す場合が多い。
1970年代を通して撮影された「6エグザイルズ」を見ていて、この写真家、亡命という故郷喪失・アイデンティティー喪失によって浮遊する意識、疎外感の亢進にも自己をキチンと見つめ続けていると感じた。
この人が抱える「孤独を見つめる視点」が私の胸をうつ。撮影する対象が熱気ある不特定多数の大衆から、都会に寂しく行き来するひとりかふたりの被写体に移行していく。この移行、あるいは視点のあらたな獲得が実にスムーズだったのではないか。私なら新しい視点の獲得にきっと四苦八苦して放り出してしまうような内部葛藤をすると思うが、この作者はそれほど悩んだ形跡は見せていない。もともとの出発点の視点にそのまま戻ったような感じもする。
「侵攻」という報道写真のような世界に踏み込んでいってそこで自分を見失うことなく、元の視点をもって新しい「亡命者」という立場で、西欧の社会を見つめたという理解ができるのかもしれない。同じ目で東欧と西欧、両方に共通する国家や都市、社会の病理を見つめていたといえる。当時のチェコスロバキアからみれば憧れであったろう「自由」は「人間の顔をした社会主義」という合言葉に込められていたと思う。しかし手本とされた西欧の社会の病理は、どこかで東欧の社会の病理と共通であったはずだ。作者はそのことを自覚的に視点として抱えていたと思う。
1970年代から80年代に社会の底辺で、社会の病理を見つめ続けた軌跡がこのシリーズなのだろう。


さらに「7カオス」という1980年代以降の造形的な視点をもったパノラマ写真が素晴らしい。パノラマ写真の広がり・奥行きのある形を獲得することで、この作者の出発点の視点がさらに豊かになったように感じる。あるいは、反対にこの作者によってパノラマ写真の奥行きの広さが発見されたと言い換えてもいいかもしれない。
このシリーズにもはや人間はほとんど登場しない。あれほど「侵攻」で人間の極限の姿の一端を切り取ったにも関わらず、この地平では遺跡と都会と無機的な産業施設と自然の造形的な美に没入している。人間は施設や遺跡などを通して痕跡として自然に何らかの跡を残しているだけで、画面に躍り出てくることがない。それでも人間を感じさせる点が、このシリーズの魅力だと思った。
