Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

古事記読了

2014年03月05日 21時28分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 やっと古事記を一昨日読み終えた。古い倭ことばで書かれているので、なかなか読みづらい。読み始めてから、実に7週間もかかってしまった。まあずっと格闘していたわけではなく、長く電車に乗る時間などを利用しながらだったからやむを得ないのだが‥。
 私には漢文調の日本書紀よりずっと読みにくかった。それでも何回か行ったり来たり、口を動かして幾度か読み返すうちに何とかわかった。というよりはわかったような気になった。結構誤読もしていると思う。岩波文庫版は現代語訳はないので、早めに現代語訳だけでも通読しておいた方がいいかもしれない。
 しかも歌はさらに手ごわい。ほとんどの歌が、最後まで理解できないままであった。これはやむを得ないと断念した。

 豊かな物語の宝庫と言われているとおり、物語世界を豊穣に構築してきた社会というものを感ずることができる。

 このようなものを自分の時代の政治からの発想で恣意的に解釈して利用しようとしたかつての政治指導者達の真似など決してしたくないものである。

 物語としての豊穣な世界に自由に遊ぶのは実に楽しい。

 昨日から読み始めたのが、この間ブログに記載した「地球外生命-われわれは孤独か-」(岩波新書)。これは早めに終わりそうである。

 本日はオーロラツアーのオプションの申込みと支払いを済ませた。飛行機の便も確定し、成田行きのバスの手配もとりあえず終了。次第に具体的になってくる。写真がうまく撮影できるだろうか。これはもっと勉強しないといけない。



人気ブログランキングへ

「世紀の日本画」展‥感想3

2014年03月05日 13時05分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 初めに掲げる絵は、荘司福という画家の「風化の柵」(1974)。私が今回の展示作品の中で一番気に入った作品である。
 漆黒の背景の中から白い塊がクローズアップされているが、それが何なのかをすぐには理解することはできなかった。ジッと見ていると白い塊の右側に人の顔のようなものを発見した。その顔は鬼のようでもあり、どこか苦悩をかみしめたようでもあり、泣いているようでもあり、能の翁面のようにさまざまな表情が隠れているようでもある。開けた口が印象的である。開けた口というのはしまりがないし本来は力を入れていない脱力の表情であるので好まないのだが、この顔には惹きつけられた。これは押さえつけられたものの表情だと思った。それが隠れるようでいて隠しきれない情念のように浮かび上がっている。
 実は宮城県美術館蔵となっているし、作家は仙台在住の画家である。見たことがあるはずである。画家の名前を聞いたことはあるはずだが、記憶がない。絵というものに興味があったはずだが、最近のように熱心に見ることはない時期に見たのだと思う。昨年訪れたときには見てはいない。
 解説を読むと、古代の多賀城などの城柵にある寺院の仏像が時代とともに風化したイメージのようだ。仏像には作った人、拝んだ人の祈りが張り付くと云われるが、それすらも朽ちていくイメージであるようだ。目から垂れる涙のような線も印象的だ。白と薄茶のかたまりは城柵か人か、時代とその変遷の具象化かもしれない。背景の黒もいい。
 私は具象と抽象の狭間に位置するこのような作品が最近、特に好きになってきた。あくまでも印象でしかないのだが、この1970年代からこの院展での作品というのは旧来からの題材や着想から自由になってきたのか、と感じる。特に検証したのではないが、この時代そのものが大きく変わったことの反映ではないかと、勝手に自分に引き付けて解釈している。私がまだ仙台に住んでいた時期の作品でもある。あまりに自分に引き付け過ぎたかもしれない。それは許してもらうしかない。



 この作品は、田淵俊夫「流転」(1982)。
 題を見なければ素通りをしていたかもしれない。一見黄色が印象的で、冬枯れに近い草むら、薄原に残った緑と枯れた草の対比を描いたのかと思ったが、それだけでここに展示されるわけがないと思いなおした。
 題を読んでから、もう一度目を画面にもどすと、薄の若い穂と次第に右端の方に倒れていくに従い枯れて倒れていく薄の穂が表現されている。左端に移るにしたがい薄のものと思われる葉が色を失いはやり枯れていく。左右で葉と穂の時間を対照的に固定している。地上部分の薄の時間経過が同じ画面に固定されているのに気付いた。
 単なる風景画ではない。知的な絵である、時間という概念を二次元画面に張り付ける試みのひとつなのであろう。色の変化も効果的に見えた。
 画家のコメントでは、薄の時間だけではなく、流転という題名からは地球誕生以来の生命の反復、未来へと続く営みを表現しようとしたとある。この長大な時間を画面に固定しようとしたことが成功したのかについては判断は下せないが、この静かにたたずむ薄は意志を持ったかのように、何かを内に秘めていることは確かだと感じた。
 このような絵も私には好ましい。



 この絵を見たとき、どこかで見たような人の姿だが、それがどこなのかは思い出さなかった。
 作者は手塚雄二。「市民」(1991)。題名を見てようやく有名な、そしてすぐそばにある西洋美術館にあるロダンの「カレーの市民」という群像であることがわかった。雨の日の情景から想を得たとのことである。
 彫刻の力強さを日本画で表現しようとしたとのことだが、私には彫刻自体よりもいっそう処刑を受け入れようとする六名の人間の苦悩を沈鬱に表現していると感じた。
 またこれが日本画か、という感じもした。西洋画の画面と日本画の画面との差をあまり意識しなくなっているのかと思った。紙に描き、絵の具が日本画特有のものということを除けば、題材でも想念でも西洋画と日本画の垣根は感じられない。



 この絵は、小野田尚之の「くつおと」(1996)。
 東京国立博物館の横による今は使われていない京成線「博物館動物園」駅。1997年まで営業していたとのこと。私も利用した記憶がある。
 過去の情景というだけでなく、未来の時間も含んでいるかもしれない。博物館という駅名を背負って亡霊のように浮かび上がってくる人間の想念が感じられる。ありふれた通俗的な懐かしさに流されてしまう危うさもある。劇画的な一コマとして既視感もある。それでも惹かれる力を感じた。

 手塚雄二、小野田尚之は私よりも若い世代になる。今後日本画がどうなっていくのか、興味が湧いた。



人気ブログランキングへ