Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

中原中也「早春の風」

2014年03月15日 23時55分10秒 | 読書
 春の消息

生きてゐるのは喜びなのか
生きてゐるのは悲しみなのか
どうやら僕には分らなんだが
僕は街なぞ歩いてゐました

店舗々々に朝陽はあたつて
淡い可愛いい物々の蔭影
僕はそれでも元気はなかつた
どうやら 足引摺つて歩いてゐました
生きてゐるのは喜びなのか
生きてゐるのは悲しみなのか

こんな思ひが浮かぶといふのも
たゞたゞ衰弱てゐるせいだろか?
それとももともとこれしきなのが
人生といふものなのだろうか?

尤も分つたところでどうさへ
それがどうにもなるものでもない
こんな気持ちになつたらなつたで
自然にしてゐるよりほかもない

さうと思へば涙がこぼれる
なんだか知らねえ涙がこぼれる
悪く思つて下さいますな
僕はこんなに怠け者


 これはまた趣きの違う詩であるが、先ほどの12編の詩の中の6番目の詩である。中原中也の詩の魅力はこんなに趣きの違う詩が、混然となっていることにもあるのだろう。私のチェックは△が記されている。単なる✓ではない。○でもない。ちょっと戸惑った印象がこの△の印にあらわされているのかもしれない。そんな戸惑いが感じられる詩である。
 意外とこんな戸惑いが20数年前の私には似つかわしかったのかもしれない。



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中原中也「早春散歩」

2014年03月15日 09時50分15秒 | 読書
 早春散歩

空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
春、早春は心なびかせ、
それがまるで薄絹でてもあるやうに、
ハンケチででもあるやうに
我等の心を引千切り
きれぎれにして風に散らせる

私は、まるで過去がかかつたかのやうに
少なくとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
風の中を吹き過ぎる
異國人のやうな眼眸をして、
確固たるものの如く、
また隙間風にも消え去るものの如く

さうしてこの淋しい心を抱いて、
今年もまた春を迎へるものであることを
ゆるやかにも、茲に春は立返つたのであることを
土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ‥‥


 今朝の明るい空と日差しのもと、ベランダに出てセキセイインコの世話をしていたらふと、中原中也のことを思い出した。この詩が心に残っていたわけではなく、何となく、中原中也の詩が気になった。春早い時期の詩がいくつかいいものがあったことだけを思い出した。
 これは目についた未完詩編3に所収されている「早春散歩」という12編の詩の冒頭の詩である。
 読んだのは1991年の6月から7月にかけて。40歳の頃である。労働組合の分裂・再編の先頭に立っているときで、仕事にも、組合役員としても一番忙しく、毎日徹夜に近い日々が続いた頃に読んでいる。たぶんこのような作品を読まなければ身が持たなかったのではないか。朝3時ころ布団に入って、15分ほどの短い時間にむさぼるように目を通してから眠っていたのだと思う。
 この講談社文芸文庫の3冊、すべてに鉛筆のチェックが入っている。この詩にはコメントは書いていないが丸が書いてある。何が印象に残ったのかは覚えていない。
 今この歳で、思い出すというのは、どんな心の欲求なのだろうか。


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