Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春の一日

2014年03月23日 18時45分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりに気持ちの良い天気となった。喉の調子は完全ではないので、ジョギングと全力でのウォーキングはまだやめた。しかし家にジッとしているのはもったいない。ということで、毎時5キロ未満のウォーキングならば問題はなかろうということで、自宅から環状二号線-新横浜駅-鶴見川堤防-大綱橋-菊名駅のコースを歩いてみることにした。菊名駅からは東横線で横浜駅まで行き、横浜駅からは自宅まで歩く周回コースを考えた。
 13時過ぎに家を出て、菊名駅についたのが17時。横浜駅からは途中の公園でビールを1本飲んで一休み。合計30000歩、約20キロのコースを歩いた。
 こんなに歩いたのは久しぶりである。幸い喉の調子は悪くない。気持ちのいい汗をかくことができた。

 新横浜駅前の鶴見川沿いの公園はお弁当を広げる家族連れや子供たちで賑やかであった。サクラはまだ蕾も硬いようで、開花は来週後半のような気がした。
 土手に土筆が少し残っていた。見つけたのは5本ほど。もったいなくて採取するのはやめた。写真に撮ればよかったと反省。鶯は残念ながら聞くことはできなかった。

途中で見かけた春
      

 


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うぐいす

2014年03月23日 10時40分15秒 | 俳句・短歌・詩等関連



 朝、妻がうぐいすの音を聞いたという。もっと前から鳴いていたと思うが、云われてみれば今年初めての話だ。残念ながら私の耳には届かなかった。
 うぐいすの声は山に行くと必ず聞くことができるが、都会では喧騒に隠れてあまり鳴き声を耳にしない。またそのような声に耳を傾ける気分となっていない。聞こえているのに認識していないということもありそうだ。
 都会の中でもちょっと広い公園や木々がまとまっている団地、寺社などでも聞こうとすれば結構な種類の野鳥の声が聞こえる。私は残念ながら声や姿で種類を特定することはできないが、野鳥の声はなぜか気持ちにゆとりができる。否、気持ちにゆとりがあれば聞こえる。
 しかしながら歳時記を紐解いてみると、うぐいすの項では都会の句が少ない。

・鶯や前山いよよ雨の中  水原秋櫻子
・うぐひすに瀞は小さき渦連らぬ  篠原梵
・やはらかな一枚の田を鶯に  長谷川櫂
・鶯に瀧音笑ひつつ暮るる  飯田龍太

 都会ないし町中で詠んだと思われる句は
・鶯や障子あくれば東山  夏目漱石
・鶯や朝寝を起こす人もなし  正岡子規
・うぐいすや琴抱かれて門を出づ  加畑吉男
・初音してどちらからともなく会釈  小出秋光

 しかし私の印象では、都会でならではの鶯の句は目にしない。

 鶯と云えば与謝蕪村には鶯の句が多いと聞いたことがある。

・うぐいすのあちこちとするや小家がち
・鶯の声遠き日も暮にけり
・うぐひすや家内揃ふて飯時分
・うぐひすの啼やちいさき口明て
・うぐひすに終日遠し畑の人

 最後に句には現代に通じる感覚を見ることもできる。


 今は残念ながら、公園でもイヤホンをして周囲の音から自分を遮断している人には、この声は聞こえていない。都会の中で社会から自分を遮断しているだけでなく、自然からも隔絶することを選択しているのを見るのは、さびしい気もする。
 山やハイキングに行ってもイヤホンを外さないで歩いている人も多い。イヤホンならまだいいが、夏山ではラジオのボリュームを上げて高校野球や歌を流しながら歩いている。とてももったいないと思う。
 最近は音だけでなく、スマホ歩き、ゲーム歩きといって視覚まで社会や自然から自分を隔絶させている。こうなるとその人自身が危険というのではなく、社会的ルールからも外れている自分に気が付かない現象である。お互いに道を譲りあって人の往来が成り立っているが、一方的に相手に譲らさせる時代である。コミュニケーションを拒否し、相互関係を信じていないということになる。自分の感覚をとおした社会との接点が喪失されれば、都市での生活そのものが成り立たなくなる。恐ろしい社会になったものである。「危険」というキャンペーンがされているが、これではことの本質を見誤っている。社会的ルール、マナー違反ということの周知が必要なのではないだろうか。
 聴覚や視覚に障害がある人にとってはコミュニケーションの確保への思いはとても重いものがある。その重要な感覚を自ら拒否する人が蔓延する社会というものが気にかかる。




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