Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

午後は在宅

2014年03月19日 22時35分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午後は出かけることなく在宅した。
 喉の具合はうがいを繰り返したためか、随分と良くなった。遊び過ぎが原因と諭されたが、多分そのとおりだと思う。この回復の状態ならば明日の朝にはもっとよくなって欲しいと思う。

 本日オーロラツアーに向けて第一回目の荷づくりをしてみた。着るものの嵩が多い。少し着るものを減らすか、圧縮袋を購入してくるか、悩みどころだ。カメラはやはり嵩張る。カメラの電池の予備をひとつ購入した方が良さそうである。使い捨てカイロも購入した。
 そうして薬・洗面用具・お金・ガイドブック・パスポート・筆記用具・電源用電池・充電器などの小物類を用意することなどの準備がまだ残っている。
 最終的に荷物の準備が出来上がるのを25日を目標にしてみた。何度かやり直しながらリュックに詰め込んでいくのが楽しみといえば楽しみである。山行ならば慣れているのだが、初めてのことなので想定が難しい。

 喉の具合が悪いので、あまり根を詰めては出来なかった。

 夕食後は「荒地詩集1951」の序文にあたる「Xへの献辞」と、鮎川信夫の「橋上の人」の連作、同じく鮎川信夫の「現代詩とは何か」を読んでみたが、なかなか読みこなせない。「橋上の人」、この作品を最初に読んだ時の感動は蘇ったが、それを記す力量が私には今もない。情けないと思う。
 最近は本を読めば読むほど、そのことの感想を述べる力量が自分にはないことがどんどん明らかになっていくだけである。悲しい話である。

 本日は友人のKさんにいただいた柚子を浮かべて柚子湯。気持ちよさそうである。喉がこの香りと揮発成分でよくなることを期待したい。いいものをいただいた。感謝。



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中桐雅夫「二月二十九日の詩」

2014年03月19日 20時06分53秒 | 読書
 中桐雅夫の「荒地詩集1956」の「二月二十九日の詩」という一連の5編の詩は、最後の長い詩「二月二十九日の詩」で終わるのだが、残念ながら私はこの長い詩が昔からなかなか理解できなかった。理解できないまま、いつの間にか忘却しかかっていた。今もって難しい。
 だが、不意に先週、意識の底から浮かび上がってきた。この間40年近く、詩そのものを読んだ記憶は忘却することはなくて、意識の表面に近くまで浮かびあがってきていたのかもしれない。
 この詩の最後、ということはこの一連の詩の最後でもあるのだが、次のような13行で締めくくられている。

 二月二十九日の詩 5 第三連

しかもわれわれは死に近づきつつある、そしてしかも、
近づきつつあることを忘れている、
獲物だと思っていたものが実は狩人で、
一心にわれわれを狙っているのだ。
だが、あせるか、何もするな、もう君の指には
最後の遺言状を書く力も残されていない、ただ
じつと待つのが君の仕事である、そして
「いまは死ぬのによい時だ」と言い得るには、
百冊の書物よりももっと重い心が必要だ。
その時、君は知るだろう、待つということが
どんなに重要な意味をもつたかを。そして
絶望のなかから、君が君の詩を発見するのは
ようやく、その時である。


 ここで注意しなくてはいけないのは、死が自然死であり、意志した死ではないということだと思う。つい自らの死に引き寄せてしまいそうであるが、ここではそう読んではならないと思う。
 「「いまは死ぬのによい時だ」と言い得るには、百冊の書物よりももっと重い心が必要だ」‥この言葉は本当に重い、とこの歳になって実感が湧いてくる。
 前回も記載したが、中桐雅夫という詩人は死を誠実に見つめ続けて表現した人ではないか。ポツダム宣言受諾・無条件降伏という事実によって1945年に敗戦を迎えたという、時代を真正面から体験してそこにこだわりながら詩という営為を続けてきた詩人である。死についての感覚はとても暗く、そして切実な体験なのであろう。
 この自分が抱え込んだ死のイメージにこだわる姿勢、死を引きずることをやめることができない、ある意味ストイックな生き方にたじろぎながら、私はどこかでこのような世界を絶えず反芻しながら生きてきたように思う。そんな原点に近い像が、この詩から得られたといえる。私の出発点だったのかもしれない。

 このブログ、この先どのような展開になるか、綴っている本人にもわからないのだが、自分の出発点に回帰する模索であるかもしれない。

 この詩は、いつまでも私は忘れることのできない、忘れてはいけない「詩の体験」であると感じた。



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博雅のシウマイ

2014年03月19日 13時27分33秒 | 料理関連&お酒
 土曜日からの喉の違和感、痛みが昨夜からひどくなった。朝は痰が絡んでいる。しゃべりすぎただけの違和感ではなく、炎症がひどいようだ。
・いわゆる風邪の症状が土曜日から出てきたのか、
・喉を使いすぎてそこで雑菌が繁殖して炎症をおこしたのか、
どちらかであろう。
 一般に「風邪」といわれるものは特有の菌があるのか、それとも、さまざまな雑菌が喉や鼻の粘膜で炎症を起こすのを一般的に「風邪」とよんでいるのか、素人の私にはわからない。
 そしてどちらかに決定して医師の処方が決まるというものでもなさそうである。いわゆる風邪といわれるものは、炎症を抑える薬しかない。原因の菌を抑え込むという処方は無いと聞いている。ということで今回はうがい薬に頼るしかなさそうである。
うがい薬が切れているので、いつもの内科で処方してもらった。
 本日も講座は無いので、一日おとなしくしていた方が良さそうである。



 帰り道にはバスでちょっと遠回りをして買い物。ついでに隣にある「博雅」というシウマイを製造しているところでシウマイと中華麺を購入してみた。
 博雅のシウマイというのは横浜に長年住んでいる人間には懐かしい名前なのだが、ホームページには次のように書かれている。

「日本におけるシウマイ製造販売の歴史は明治に遡り、明治14年に中国広東省出身の鮑棠(バオ・タン)氏が横浜山下町に「博雅亭」を開店し、その後、伊勢佐木町に進出して二代目、鮑博公(バオ・ボオゴン)氏の時代に日本で初めて「焼売」が製造販売され好評を博しました。 時代は流れて昭和に入り「博雅亭」の二代目(鮑博公)の義弟が横浜野毛町に博雅亭の姉妹店として「博雅茶郷」を開店し、横浜高島屋創業時から焼売(シウマイ)を「ヨコハマ博雅」のブランド名で 50年余にわたり販売して来ました。
 その後、経営者が変遷するうちに平成20年2月に横浜高島屋店が閉店となり、博雅茶郷時代からのシウマイ職人が工場長となったポン・コーポレーション(有)がシウマイを製造するかたわら直販で細々と販売活動を行なって来ました。
 その際に機械による製造から伝統の「手包み」に戻して、食材も純国産の食材を用い伝統職人のノウハウと継承されてきたレシピーで幻のシウマイが復活しました。
 このたび新たに株式会社博雅として新生博雅がスタートし、フード・ビジネスで社会に貢献することを理念に掲げ、食材も吟味してさらなる「美味しさ」の追及を目指しています。」

 行間からはいろいろの紆余曲折があったようすだが、その内容は我々には伝わらない。とりあえずは昔ながらの味が続いていることを信用するしかない。

 今日の昼はこの中華麺を食べた。肝心のシウマイは明日にでも食べることにした。ボリューム満点のシウマイなのでお昼に食べるには手ごわい。
 


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