Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

春一番とオカメザクラ

2014年03月18日 22時01分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 春一番の風は横浜ではお昼過ぎから次第におさまってきた。14時ころ横浜駅まで歩いて出かけた。風が弱くなると同時に雲が厚く空を覆っていた。そして外に出て見てビックリしたのは、微かな、実に細かい雨粒が落ちてきている。40分ほど歩いて眼鏡の片方のレンズに10個ほどの小さな水滴が付く程度だからほとんど降っていないに等しかったが、道路が少し濡れたようになっている個所もあった。

 途中で団地の下の昔の川沿いの道に植えられたオカメザクラの小さめの花が満開の様子。鮮やかな赤い色が印象的であった。メジロも喜んでいた。

   

 喉は相変わらずいがらっぼい。嗽をしたが、痛みが少しある。家電量販店や本屋をぶらついた後、喫茶店に入り読書を始めたら1ページも読まないうちにすっかり寝入ってしまった。暖かい室温につられて1時間半ほど気持ちよく寝てしまった。
 目が覚めたときは少々恥ずかしかったが、客もたくさんいたので目立ってはいなかったと思い、ホッとした。飲み疲れのようだ。

 帰宅して先ほど「中桐雅夫」の記事を書き上げた。夕食前には書き上げたかったかが、いかんせん中桐雅夫という詩人についての基本的な知識は持ち合わせていない。しっているのは引用に挙げた一連の詩だけである。
 そこでネットで検索しながらほんの少しだけ知識を仕入れて、引用させてもらった。引用元には先ほどお礼の報告を当該ブログのコメント欄に投稿させてもらった。

 夕食時にテレビを見ていたらNHKで「ひめゆりを訪ねて」という30分番組がはじまり、最後まで見てしまった。
 このような番組が、今の総理大臣と、あの新会長などの役員によって日の目を見なくなったり、今後制作されるようなことの無いように祈らざるを得ない。なんという時代になったのだろう。
 中桐雅夫という詩人をたまたま取り上げたのだが、日本という国家はあの戦争をきちんと総括していないことにあらためて思った。
 情けないものである。



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中桐雅夫「海」

2014年03月18日 20時04分22秒 | 読書
 中桐雅夫という詩人に次の詩がある。「荒地詩集1956」の冒頭におさめられている詩である。1977年に新装版が国文社から出版されて購入した。



 湯河原に久しぶりに行った日曜日にうろ覚えながら、ここら辺の海岸を読み込んだ詩があったのではないか、と考えていた。「荒地詩集」のある年の冒頭ということだけは覚えていた。それで1951年版から順繰りにめくっていってやっと見つけた。
 そしてうろ覚えだった詩の内容を思い出した。
 海の鮮烈な色と、死んだ友の無惨な死が印象的である。戦後の詩はこのような出発をした。いや戦後の日本全体がこのような出発をしたのである、と私は教わってきたし、自分なりにこれに近いイメージを抱いてきた。1956年と云えば私は5歳。周囲の街の景色も、身の回りの大人の話題も、この詩の第二連のようなイメージを含んでいた。

 長い詩であるが、わかりやすいのでそのままここに掲載したい。「二月二十九日の詩」という5編の詩の冒頭に置かれている。


 海

根府川と真鶴の間の海の
あのすばらしい色を見ると、いつも僕は
生きていたのをうれしく思う、
僕の眼があの通りの色なら
すべての本は投げ捨ててもいい。
沖の方はパイプの煙のような紫で、
だんだん薄い緑が加わりながら岸へ寄せてくる、
岸辺にはわずかに白い泡波がたち、
秋の空の秋の色とすっかり溶けあって、
全体がひとつの海の色をつくっている、
猫のからたのようなやわらかさの下に、
稲妻の鋭さを隠している海、
ああ、この色を僕の眼にできるなら、
生きてゆく楽しさを人にわかつこともできるだろう。

希望が過ぎ去るように早く、その色は消える。
生きていたころのMの眼が
ちようどこんな色だったが、それもいまでは
泥土にうがたれた穴でしかない。
死は何と早く人と人とを引き離すものだろう、
前に君のことを思い出したのはいつだったかも想い出せないが、
ミイトキイナというビルマの地名を覚えているのは、
十何年か前、そこで君が戦死したからだ。
君が死んで、戦闘が終わった時、連合軍はビラを撒いた。
「諸君はよく勇敢に戦った、われわれ連合軍は
諸君に敬意を表せざるを得ない。」
そうだ、東京にいたころも君は勇敢な男だったが、
イラワジ川につかったまま二ヶ月も戦い続け、
ふくれあがった皮膚はちょっと指で押しただけで、
穴があいて、どろどろに腐ったウミが出てくる
そんな戦いにどのような賛辞が許されるだろう。

イラワジ川の水の色がどんなたったか、
僕は知らない、知ろうとも思わぬ。だが、
蜜柑の皮をむきはじめると
蜜柑のうえに涙が落ちた、君の好きだった蜜柑、
いちどきに十以上も食べた蜜柑。
僕の心はこわれかけた目覚し時計のように鳴りだし、
湘南電車はそれよりももっと鋭い音を発して
僕の心をえぐった。
いま過ぎたのがどこの駅か、
僕は知らない、知ろうともせず蜜柑の皮をむいていた。


 「会社の人事」という詩集は1979年に出版となった。実は私はこれを買いそびれ、読みそびれてそのままになっていたことを思い出した。実はそのころには私は現代詩に目をとおすことを止めてしまっていたのだから。
 そこでネットで「中桐雅夫」を検索したら、「渓流斎日乗(渓流斎高田朋之介の公式ブログ)」というのに行き着いた。そこに「会社の人事」からのいくつかの引用があった(2011.10.06の記事)。ふたつだけ引用させてもらうことにした。

・何という嫌なことばだ、「生きざま」とは、 言い出した奴の息の根をとめてやりたい、 知らないのか、これは「ひどい死にざま」という風に、 悪い意味にしか使わないのだ、ざまあ見ろ!(嫌なことば)
・新年は、死んだ人をしのぶためにある、 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか、 おのれだけが生き残っているのはなぜかとうためだ、 でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?(きのうはあすに)

 またウィキペディアに、「彼の死は、自殺ではなく自死だという人もあるが、/死はいくら言い換えても死だ、/言い換えに浮き身をやつすのは、/中味の薄さをごまかすためにすぎぬ。/ことばは時とともに変わる、しかし忘れるな、/変える必要がないものは変えないことが必要だ。」(ことばの言い換え)という言葉が引用されている。

 これから想像するに、この詩人は出発点から「死」のイメージを誠実に追いかけ、生涯こだわった詩人であるらしい。

 今あらためてこの詩人の詩を追いかけて見たくなった。



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春一番

2014年03月18日 12時41分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は春一番とのこと。横浜でも風がとても強い。予報では11メートルの風となっているが、私の感じでは20メートルは超えている。気象庁のホームページでは10時までの観測で横浜の瞬間最大風速は21.6メートルとのこと。気温も20℃を超えそうである。
 この強風の中、団地の修繕工事に伴う足場の解体工事が行われている。見ていると実に手際がいい。植え込みで下の方の作業についてはよく見えないのだが、7人ほどが一組となって、どんどんはずして下にいる人が部材ごとに積み上げていく。強い風の中、「本日は作業が行われるのかな」、と見ていたが強風を感じさせないで作業が進行している。見ていて飽きないし、心地良ささえ感じる。
 この足場の技術、随分と進歩したと聞く。そういわれて昔を思い出したが、私の勤めた40年ほど前にはこんな風にシステム化された足場は組まれていなかったと思う。いつごろからこのようなシステムが確立したのだろうか。仕事柄関係はしないことはなかったが、はっきりとした記憶がない。人間の記憶とは本当に情けないものである。

 昨日までの3日連続飲み会で、特に土・日の宴会で喉がかすれている。もともと喉の酷使には弱い方である。おしゃべりが基本的に苦手だが、気の合う仲間との宴会は楽しくてつい声も出てしまう。組合での発言も大声は出さずにできるだけ語り掛けるようにしゃべるようにしてきた。学生時代煙草を吸ったが、いつも喉がいがらっぽくなっていい気分ではなかった。結婚してすぐに煙草をやめて、喉の調子が途端によくなった。
 どちらかというと普段もボソボソとという程度に声を出したい。もう仕事も組合役員も降りたのだから、大勢を前にした演説も挨拶もすることはない。あったとしてもマイクがある屋内でしかも1~2分という短時間だから喉を傷めることなどない。
 講座を聴く、美術館を巡る、感想を書く、読書、山登り、ウォーキングという生活ででは、言葉を発するということはまずあり得ない。とても気に入っている。
 しかし認知症に関する報道を聞くと、発語というのは脳にいい刺激となるとのことをたびたび耳にする。歌うことと会話をすることを奨励される。しかしこれが私には苦手である。だらだらといつまでも取り留めもなく続く会話、歌を歌うこと、これはどうしても嫌である。そのような施設に入れられたら、意識があるうちは黙りこくって頑なに拒否すると思う。
 きっと扱いにくい偏屈オヤジとして嫌われるのが目に見えている。



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