4月12日(土)に府中市立美術館で開催している「江戸絵画の19世紀」展を見てきた。「江戸後期、19世紀は、手仕事としての技術と創意工夫が極限に達した時代」という時代認識のもとで、当時の状況を「伝統と限られた外国からの情報をもとに、自ら考え、独創的で精巧なからくり人形‥が生まれた」と把握している。
このうよな視点から江戸時代の芸術、特に木版画や銅版画、絵画を見直そうというもの。同時にこの技術探究の時代だから「世におもねることのない作品は、技術の極みとは対照的な、心の表現の極みといえる」とも表記されている。
18世紀には、今盛んに評価されている円山応挙、伊藤若冲、長澤蘆雪、曽我蕭白らが活躍したが、「奔走で創造的」と評されるがこの時代はどう見られていたのだろう。
私などの40年以上前の学校では、この時代の芸術の特徴として、時代の終末ということと重ね合わせて「退廃的」とか「独創性がない」あるいは「人の眼を驚かすきわもの」といった評価が与えられていた。ということで実際の作品を教科書等で見ることもあまりなかった。ようやく最近再評価されるようになり、今回のような試みに繋がっているのかと思った。
展示している作家は、葛飾北斎、歌川国芳、狩野芳崖、狩野一信、鈴木其一、鈴木守一、小林清親、歌川広重、谷文晁、歌川国貞、高橋由一などのすでに有名な人だけではない。私が初めて聞く、山本梅逸、田中吶言、安田雷洲、亜欧堂田善などの作品が並んでいた。
残念ながら前後期に分かれた展示なので一部目に触れなかった作品もあった。
時代や社会状況に引き付けて語るのは今回は不勉強なので、惹かれた作品を中心に感想を記すことにしたい。
まずはチラシの表を飾る葛飾北斎の「木曽路の奥阿弥陀ヶ滝」。これは昔から面白い構図に惹かれている。滝つぼに大きく張りだして危険な岩の上で敷物を敷いて宴会をたのしむ2人と従者と思われる1人が火をおこしている中央左の描写が面白いというか、おしりが怖くてムズムズする。画面で次に目につくのが、滝の始まりの地点の水の溜まり口ともなる最上段の丸い水のかたまり。そこから滝は腕を広げて落下している。物理的にはこの枝分かれするような水の流れはあり得ない。だが妙にリアリティーがあり、人間のような存在感がある絵だ。張り出した岩の誇張された構図などはいかにも北斎らしい描き方に見える。
次にチラシの4ページ目にある鈴木其一の「毘沙門天像」。このリアリティーある顔は、狩野芳崖の悲母観音にも通じるような顔立ちに見える。男性として描かれる毘沙門天だが、どこか女性らしさもある。このような顔がもてはやらされた時代だったかもしれない。
チラシの最終ページの上部にある唖欧堂田善の銅版画「墨堤観桜図」の西洋画に学んだ遠近法、影の描き方、遠景の木や人物などはとても斬新に感じた。
チラシには載っていないが高橋由一の絵画も宮城県美術館などで見るのとは少し趣の違う作品「墨水桜花輝耀の景」があり惹かれた。初期の作品だろうか、上記の亜欧堂田善のような雰囲気に見えた。
狩野一信も2点あったが、作者名を見なくてもいかにもあの五百羅漢の絵の作者だと直感した。色彩・筆遣いなど変わらないものがあると感じた。
西洋画の技法、構図、銅版画などの技法、西洋画の絵の具等が少しずつ社会に溶け込んでいく様子がよくわかる展示であったと思う。国芳だけが奇想ではないこともわかった。また狩野芳崖が突如光彩を放ったのではないことも理解できたように感じた。
残念ながら初めに町田でピカソを見てしまって図録を購入したので、ここでは図録(2400円)には手が届かなかった。また気に入った作品のポストカードも無かった。プリンターの故障に伴ってスキャナーも今は我が家にはない。ピカソについてはコンビニを利用したが、やはり自分の家にある機械で時間をかけてスキャンする方が気持ちがいい。早く治って戻ってきてもらいたいものである。
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