Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりの雨

2014年04月18日 22時52分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりに雨となった。夕方から出かけたが時間雨量1ミリに達しない細かい雨である。
 通りがかり人様から、イエローナイフの記事の続きの掲載が遅れていることを指摘された。御指摘のとおりで、忘れたわけではない。先週中に記載する旨発言していたのに約束を破ってしまっている。
 実は来週に参加者6名でお互いの写真交換会を予定している。それが済んでからと「楽な方に」考えが傾いてそのままになってしまった。別段来週にみんなで顔を合わせる前に書いても何ら問題は無いのだが、何となくずるずると先延ばしになってしまった。

 ということで来週中には記載する予定なので、お許しを願いたい。

 明日は朝から退職者会の総会。いつもよりずっと早めに家を出なくてはならない。早めに就寝することにした。





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「江戸絵画の19世紀」展

2014年04月18日 13時44分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
               

 4月12日(土)に府中市立美術館で開催している「江戸絵画の19世紀」展を見てきた。「江戸後期、19世紀は、手仕事としての技術と創意工夫が極限に達した時代」という時代認識のもとで、当時の状況を「伝統と限られた外国からの情報をもとに、自ら考え、独創的で精巧なからくり人形‥が生まれた」と把握している。
 このうよな視点から江戸時代の芸術、特に木版画や銅版画、絵画を見直そうというもの。同時にこの技術探究の時代だから「世におもねることのない作品は、技術の極みとは対照的な、心の表現の極みといえる」とも表記されている。
 18世紀には、今盛んに評価されている円山応挙、伊藤若冲、長澤蘆雪、曽我蕭白らが活躍したが、「奔走で創造的」と評されるがこの時代はどう見られていたのだろう。
 私などの40年以上前の学校では、この時代の芸術の特徴として、時代の終末ということと重ね合わせて「退廃的」とか「独創性がない」あるいは「人の眼を驚かすきわもの」といった評価が与えられていた。ということで実際の作品を教科書等で見ることもあまりなかった。ようやく最近再評価されるようになり、今回のような試みに繋がっているのかと思った。
 展示している作家は、葛飾北斎、歌川国芳、狩野芳崖、狩野一信、鈴木其一、鈴木守一、小林清親、歌川広重、谷文晁、歌川国貞、高橋由一などのすでに有名な人だけではない。私が初めて聞く、山本梅逸、田中吶言、安田雷洲、亜欧堂田善などの作品が並んでいた。
 残念ながら前後期に分かれた展示なので一部目に触れなかった作品もあった。
 時代や社会状況に引き付けて語るのは今回は不勉強なので、惹かれた作品を中心に感想を記すことにしたい。
 まずはチラシの表を飾る葛飾北斎の「木曽路の奥阿弥陀ヶ滝」。これは昔から面白い構図に惹かれている。滝つぼに大きく張りだして危険な岩の上で敷物を敷いて宴会をたのしむ2人と従者と思われる1人が火をおこしている中央左の描写が面白いというか、おしりが怖くてムズムズする。画面で次に目につくのが、滝の始まりの地点の水の溜まり口ともなる最上段の丸い水のかたまり。そこから滝は腕を広げて落下している。物理的にはこの枝分かれするような水の流れはあり得ない。だが妙にリアリティーがあり、人間のような存在感がある絵だ。張り出した岩の誇張された構図などはいかにも北斎らしい描き方に見える。
 次にチラシの4ページ目にある鈴木其一の「毘沙門天像」。このリアリティーある顔は、狩野芳崖の悲母観音にも通じるような顔立ちに見える。男性として描かれる毘沙門天だが、どこか女性らしさもある。このような顔がもてはやらされた時代だったかもしれない。
 チラシの最終ページの上部にある唖欧堂田善の銅版画「墨堤観桜図」の西洋画に学んだ遠近法、影の描き方、遠景の木や人物などはとても斬新に感じた。
 チラシには載っていないが高橋由一の絵画も宮城県美術館などで見るのとは少し趣の違う作品「墨水桜花輝耀の景」があり惹かれた。初期の作品だろうか、上記の亜欧堂田善のような雰囲気に見えた。
 狩野一信も2点あったが、作者名を見なくてもいかにもあの五百羅漢の絵の作者だと直感した。色彩・筆遣いなど変わらないものがあると感じた。

 西洋画の技法、構図、銅版画などの技法、西洋画の絵の具等が少しずつ社会に溶け込んでいく様子がよくわかる展示であったと思う。国芳だけが奇想ではないこともわかった。また狩野芳崖が突如光彩を放ったのではないことも理解できたように感じた。

 残念ながら初めに町田でピカソを見てしまって図録を購入したので、ここでは図録(2400円)には手が届かなかった。また気に入った作品のポストカードも無かった。プリンターの故障に伴ってスキャナーも今は我が家にはない。ピカソについてはコンビニを利用したが、やはり自分の家にある機械で時間をかけてスキャンする方が気持ちがいい。早く治って戻ってきてもらいたいものである。



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等々力と野毛(追記)

2014年04月18日 10時46分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「等々力」の地名はこの小渓谷にある「不動の滝」の音が轟くことに由来するとパンフレットに記載してある。「とどろき」という地名は山梨県にも長野県、鹿児島県、栃木県、千葉県にもあり、普遍的な広がりのある地名である。長野県などの地名の由来では「郎等等力」(郎党等しく力を合わせ) 、「水が滞る」などの云われもあるようだ。千葉市では聯隊施設があり戦車や軍靴が轟いたことからつけられたとなっているが、真偽はわからない。
 世田谷区だけでなく川崎市にまたがる地名ということからすれば、渓谷の名称としては轟くかもしれないが、低湿地を含む地名であることを考えれば、一概に「轟く」という由来ではないようだ。川や水にちなむ地名であることのような気もする。

 一方の「野毛」も「のつけ」などに通じ、古く崖または突端を意味したことばのようである。世田谷区から川崎市にまたがるこの地名は、国分寺崖線の一部をなす地帯であることからも推察されるように、突き出た崖地と麓の湧水にちなんだ地名で、崖の上部と下部を含む地形をさすようである。そして世田谷区にある上野毛の高台は東急線の沿線開発に伴いは高級住宅地として有名であった。
 川崎側の野毛は府中街道と中原街道の分岐の直ぐ北側にあり、古くから人の集散する地であったと思われる。府中は秀吉の奥州仕置きで滞在したところのようで家康由来の地だが、この中原街道も家康が江戸に居を定めて入府するときに通ったといわれる街道である。中世から近世にかけては確実に交通の要衝であったと推察していいようだ。現在は交通の便のいい静かな住宅地としての佇まいに見える。
 横浜の野毛も、背後の野毛山等と関内側=大岡川沿いの崖下に広がる地帯を含んで、江戸時代には戸部村の出村としての野毛村の村名がある。
 昨日記載したように漁村としても海上交通と寄与してきたと考えられる野毛村だが、開港後は、東海道沿いの芝生(しぼう)村と開港地を結ぶ横浜道の要衝となった。また桜木町が初代横浜駅であったこともあり、関内の居留地に近い日本人の住む町としてにぎわった。戦後も関内周辺が接収されおなじように日本の物資が集まるところとして賑わった。横浜の港周辺の産業を底辺から支えた労働者の街でもあり、場末のイメージも漂うといわれた地域である。経済的には地盤沈下したといわれるが、それでも今も野毛は庶民の、サラリーマンの飲み屋街として親しまれている。

 世田谷の野毛、川崎の野毛、横浜の野毛、いづれも語源も地形もおなじような地区であるが、現在の地名が喚起する地域のイメージは随分と違っている。私も10代後半から30代末までは桜木町-野毛地区は随分と立ち寄った。
 10代前半の頃の桜木町-野毛地区は当時としては街も暗く、ちょっと危険な地域のイメージもあったが、大人になってここを通過することが多くなり親しみの湧く地域でとなった。無論野毛地区の飲み屋街という誘惑が多かったせいだが‥。
 40歳以降は所属する組合のビルが寿町に新設されたため、寿町-石川町地区に通うことが多くなった。横浜の野毛地区とは伊勢佐木町を挟んで反対側になる。
 しかし根岸台地の下という地形的な特徴は野毛地区と同じである。ここには開港時に外国船に水を供給したり、関東大震災時に市民に水を供給したという湧水が今でも崖沿いの切通し道に湧いている。吉田新田も開港地も、野毛の山と根岸の台地の間に挟まれている。ともに同じように崖と湧水に関わる地形にできた街である。
 野毛の山には開国を推進した井伊直弼の屋敷跡であり、根岸の台地は居留外国人の住居が並ぶ山手である。山の上に日本と外国人が対照的に居住し、ともに崖下には横浜を支えた労働者街が並ぶという地形的な構造に興味を惹かれる。



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