昨日初めて東京ステーションギャラリーへ出かけた。改装・復元なった東京駅の丸の内北口にあるギャラリーだが、何となく行きそびれていた。今回も開催している展覧会自体は私の趣味からすると興味深々というわけではなかった。しかしいろいろな人の絵を見るという気持ちは大切にしなくてはいけないのは当然なので、まずは入ってみなくては何事も始まらない、ということで入場。
まずは、会場の印象から。会場は3階、2階と別れていて階段で移動するのだが、この階段に古いレンガの遺構が露出している。これは見ものである。撮影が出来そうなのでこの次に来るときはこの遺構の写真を是非撮りたいと思った。人もあまり通らないので面白い被写体である。これはいいものを見つけたと思う。昨日の収穫である。

光風会100回展記念ということで、黒田清輝に始まる官展の流れに遡る団体の回顧展ということになる。黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、有島生馬、曾宮一念、小磯良平、猪熊弦一郎、國領經朗などの私のとりあえず知っている名が並んでいる。
アカデミズム・具象などがキーワードになるのだろうか。

私が惹かれた絵は、國領經朗「砂の上の群像」(1974)、内田巌「イギリスの女A」(1931)、辻永「ハルピンの冬」(1917)、田村一男「きたのくに」(1982)、寺内萬治郎「裸婦」(1953)。
まず國領經郎の「砂の上の群像」という作品は知っていたし、どこかで見たことはあると思うが、こんなに大きな絵だったかなと思った。それだけこの作品がとても目立って見えたということだろう。女性が大変艶めかしく感じられた。とくに右端に裸で立つ若い女性像がこんなに迫ってくるとは思わなかった。女性像が多い展示なのだが、どれもがあまり実在感のない印象なので余計に目立ったと思う。生きている感じがした。
女性像が多い展示なのだが、どの絵もポーズもぎこちないし、「生きている」感じが乏しい。どの絵も妙にとってつけたポーズ、あるいは動きがぎこちないポーズで生きている感じしない。動作が自然ではあっても目が死んでいるようなものもあった。その中で内田巌「イギリスの女A」は腕・手首の造詣が少々変だが、他の作品に比べて生身の人間を感じさせないで成立しているような、媚びるポーズではないものがあって惹かれた。寺内萬治郎「裸婦」は妙に艶めかしかった。
辻永「ハルピンの冬」の画面を上下に二分する大胆な青い柵が不思議におさまっている。田村一男「きたのくに」は花が咲いたコブシの造形が気に入った。

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まずは、会場の印象から。会場は3階、2階と別れていて階段で移動するのだが、この階段に古いレンガの遺構が露出している。これは見ものである。撮影が出来そうなのでこの次に来るときはこの遺構の写真を是非撮りたいと思った。人もあまり通らないので面白い被写体である。これはいいものを見つけたと思う。昨日の収穫である。


光風会100回展記念ということで、黒田清輝に始まる官展の流れに遡る団体の回顧展ということになる。黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、有島生馬、曾宮一念、小磯良平、猪熊弦一郎、國領經朗などの私のとりあえず知っている名が並んでいる。
アカデミズム・具象などがキーワードになるのだろうか。

私が惹かれた絵は、國領經朗「砂の上の群像」(1974)、内田巌「イギリスの女A」(1931)、辻永「ハルピンの冬」(1917)、田村一男「きたのくに」(1982)、寺内萬治郎「裸婦」(1953)。
まず國領經郎の「砂の上の群像」という作品は知っていたし、どこかで見たことはあると思うが、こんなに大きな絵だったかなと思った。それだけこの作品がとても目立って見えたということだろう。女性が大変艶めかしく感じられた。とくに右端に裸で立つ若い女性像がこんなに迫ってくるとは思わなかった。女性像が多い展示なのだが、どれもがあまり実在感のない印象なので余計に目立ったと思う。生きている感じがした。
女性像が多い展示なのだが、どの絵もポーズもぎこちないし、「生きている」感じが乏しい。どの絵も妙にとってつけたポーズ、あるいは動きがぎこちないポーズで生きている感じしない。動作が自然ではあっても目が死んでいるようなものもあった。その中で内田巌「イギリスの女A」は腕・手首の造詣が少々変だが、他の作品に比べて生身の人間を感じさせないで成立しているような、媚びるポーズではないものがあって惹かれた。寺内萬治郎「裸婦」は妙に艶めかしかった。
辻永「ハルピンの冬」の画面を上下に二分する大胆な青い柵が不思議におさまっている。田村一男「きたのくに」は花が咲いたコブシの造形が気に入った。

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