Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

等々力と野毛

2014年04月17日 21時42分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 等々力渓谷の記事を読まれた方がツイッターで感想を送ってくれた。
 「等々力渓谷も、国分寺崖線の一部をなしているようです。地図を眺めると、野毛・上野毛といった地名に興味をひかれます。」
 私が横浜にも「野毛」という地名があると伝えると、「上野毛・野毛は、多摩川を隔てた川崎市の下野毛と対をなしているようです。そう言えば野毛山公園は山(丘!?)なのでしょうか。横浜は不案内ですが、地形図を眺めるのも面白そう」
とのことが記載されている。

 私は急いで川崎市側の地図をみた。地形図は持ち合わせていないので都市図だけだが、確かに「下野毛」という町名が高津区の多摩川沿いにある。それだけではなく、隣接して「等々力」という町名も中原区に残っている。
 もう少し下流には大田区の下丸子があり、川崎側には中原区に中丸子・上丸子という地名もあり、今は多摩川を挟んで対岸にある。
 ここには知人がすんでいる小杉陣屋というところのすぐそばである。昔の中原街道と府中街道の分岐の宿場があったところである。宮内という地名もあり近くに鎮座する春日神社由来の地名であろう。往年の反映が偲ばれる。
 ひょっとするとここは江戸より前は多摩川が大きく蛇行していて、現在の川崎市側の下野毛、等々力、上丸子・中丸子は今の東京側だったのかもしれない。いつの頃か考古学者や歴史学者には既知のことかもしれない。またここらへんの多摩川の北側には古墳が多数ある。今でも東横線の多摩川の駅から等々力渓谷にかけて古墳が展開している。

 もともと江戸時代まで武蔵国と相模国の境界は多摩川ではなく、もっと南にあった。今の横浜市の港南区の北半分が武蔵国で南半分は相模国で、ここが境界であった。
 等々力渓谷は確かに崖沿いに湧水が並ぶ国分寺崖線の一部なのであろう。

 そして横浜市に今ある「野毛」であるが、ここは今の根岸線が走る関内地区の北側に江戸時代開かれた吉田新田の南端に位置する。吉田新田が出来るまでは野毛は漁村だけではなく横浜村への渡し場でもあり、海上交通の要でもあったようだ。吉田新田開発後は一層物資の集散地でもあったらしい。吉田新田の産物はここから江戸まで船が使われたのではないだろうか。
 そしてこの野毛は背後に丘を抱えている。今の掃部(かもん)山、御所山、野毛山を超えて戸部に出る。もともとは野毛は戸部村の出村であった。たぶんこれらの背後の山の下にひろがり、湧水が豊富に出ていたのではないだろうか。「野毛」という地名はそのような地形由来ということを聞いたような気がする。(間違っていたらゴメンナサイ。)



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「関内桜通り」のヤエザクラ

2014年04月17日 19時57分26秒 | 山行・旅行・散策
                  

 4月13日に見かけた「関内桜通り」(通り名としてはこれが正しいらしい)にヤエザクラを見に出かけた。ちょうど散り始めたばかりのようで、まさに見ごろという状態であったのがうれしかった。気温もとても暖かく風も弱く花見日和。見に訪れた人もいたが、近くに努めるサラリーマンが楽しんでいた。かなりピンクの色が強いヤエザクラが多かった。幾本化は白い花と赤い花が混在して咲いていた。また歩きには「オオシマザクラの関山(カンザン)」という紙が張り出されていたが、これが全体を指すのか、この木だけなのか判然とはしなかった。
 どの木の花も大きな房が印象的であったが、こんなにジックリと鑑賞して歩いたのは初めてであった。
 私は「関内桜道」という地図の表記が正しいと思っていたが、現地では「関内桜通り」と表記されていた。いつも通っていたのだが、知らなかったのは恥ずかしさを感じた。
 今年になって街路灯をステンドグラス風にデザインしたものが設置されたが、この見事な花に押されてあまり目立たなかった。高さも低い。これはこの満開の花が散った後に目立ってくるデザインに思えた。デザインの良しあしは花の後に判断して良さそうである。
 ミラーレスのカメラを久しぶりに使ってみたが、設定が少々変であったのに後から気が付いた。すでに撮影済みだったので色の具合が変なのは勘弁してほしい。

 この通りを歩いた後に、再び横浜公園に出向いてチューリップを前回に引き続き見てきた。今回のスナップは角度を変えて、花の芯を写してみた。

         





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