Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

禁煙のきっかけ

2014年04月28日 22時15分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は日吉駅から歩いて川崎市立井田病院の傍に出向いた。用事が済んだあと、真新しい井田病院の2階にあるレストランで、鳥のささみと野菜を中心とした「ヘルシーランチ」を食べてから、7階の展望ラウンジで展望を楽しんだ。ラウンジからは川崎の中心部から、横浜の中心地、そして丹沢山塊にかけて実によく見える。鶴見つばさ橋、大黒大橋、ベイブリッジも遠望でき、みなとみらい地区のビル街も新横浜のビルも手に取るように見える。丹沢山塊に重なるように富士山を望んだ。なかなかいい眺めである。横浜駅からわずかしか離れていないが、丹沢山塊と富士山の微妙な位置の変化が面白い。歩く楽しみのひとつでもある。

 この横浜市と川崎市の境の尾根道の川崎側に立つ井田病院は、37年ほど前に日吉に住んだ折に入院した病院である。古い病棟は現在解体中で、この後にさらに新しい病棟が建つ予定らしい。工事看板を見るとかなり大きな病院になるようだ。日吉駅から歩いて私の足で12分程、周囲の道路はとても狭いのだが、武蔵小杉駅や日吉駅、川崎市内の上平間方面にバスが頻繁に出ている。今ではかなり便利な病院のようだ。

 この病院は懐かしい。結婚して半年、たまたま流行っていた急性肝炎に罹ってこの病院に3週間ほど入院した。ここに入院したおかげで学生時代から丸8年吸っていたタバコをやめることができた。恩義ある病院ともいえる。当時常に喉がいがらっぽくて、タバコを吸うと一層辛かったが、吸うのはやめられなかった。毎日寝る前と朝は痰が詰まってそれも辛かった。タバコは自分には向いていないと思い、やめる機会をうかがっていたともいえる。
 入院した時は内科のベッドが満杯で、一時的に呼吸器病棟に入った。この病棟では看護師がタバコの害をまわりの入院患者にくどいように説いて回っていた。いろいろなパンフレットも貰って読んだ。退院してからもタバコを吸わなくなって結局タバコをやめることができた。あの時以来37年間タバコを1本も吸っていないが、実にスムーズにやめることができたと感謝している。

 ただし私の病状についてはまったくといっていいほど説明がなされなかった。急性肝炎ということは伝えられたが、肝臓に血流を確保するために横になって寝ていることが重要であるとか、どんな点滴をしているのか、処置の概要、食事の指導、退院の見通しなど医師からの説明が一切なかった。ただ寝ていろ、としか云わないし、医師も時々顔を見せるだけで何も云わなかった。こちらがしびれを切らして微熱や頭痛は治まるのか、どのように治療するのか、職場になんといって説明したらいいのか、などいろいろ聞くのだが今ひとつはっきりしなかった。
 そして熱も下がり、頭痛もなくなって3日ほどしたら突然に「明日退院していいです」と通告された。その後の生活の注意点、病院へいつ来たらいいのか、血液検査の結果など何も云われずに、退院手続きだけの説明がされた。私は退院後に「急性肝炎」について本を購入して勉強せざるを得なかったが、A型なのかB型なのかすら教えてもらえなかった。職場に提出した診断書で初めてA型肝炎という記載を見ただけであった。職場の近くの内科に赴いてその診断書を見せて、今後の生活上の注意点、血液検査の頻度などを聞いたことを思い出した。当時の医師ももう退職してしまったと思う。

 当時は患者への説明は今と違ってしないのが当たり前、患者は黙って医者や病院の処置に従っていろ、という状況だったのだろう。私のようにしつこく聞く患者は嫌われていたのだろうと思う。
 今とは雲泥の差である。今は公立でも私立でも、どんな小さな病院でもこんなことは行われないであろうし、そんな病院は廃れてしまう時代だ。



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赤坂憲雄「武蔵野を読む-」

2014年04月28日 19時33分02秒 | 読書
 「武蔵野の自然といえば、屋敷まわりの木々・畑のわきの茶・玉川上水とその分水路などによって彩られている。‥。宮本常一はやはり、『自然と日本人』のなかで、それらがどれも「ただ単なる自然ではなく、人の手によって出現した自然」であることを指摘している。‥「自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次自然を作り上げていった」というテーマは、宮本の風景論の核にあったものだが‥」。「柳田国男はかつて、‥「風景を栽える」といくらか詩的に語ったが、宮本はより即物的に「風景を作る」といってみせたのである。‥。自然を鑑賞の対象とする態度がはっきりと拒絶される。地域の生活に根ざし、それを豊かにするための風景を作ることが、ひたすら志向されていたのである。」

 このように導入部に書かれた赤坂憲雄の「武蔵野を読む-」の連載(岩波書店「図書」5月号~)が開始された。赤坂憲雄については目についた時は目をとおしている。けっしていい読者ではないが、いつも気にかけている方である。
 「挽歌に抱かれて、独歩とその「武蔵野」の読み解きへと赴くことにしよう。」と第一回の「武蔵野の挽歌から始まる」は終わっている。次回以降大いに期待しようと思う。




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東京国立博物館「栄西と建仁寺」展(その2)

2014年04月28日 09時12分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「栄西と建仁寺」展の大きな目玉が俵屋宗達の「風神雷神図屏風」。これと通常展示されている尾形光琳の「風神雷神図屏風」と並び称せられる絵である。
 今回私は両方を同時に見てきた。ポストカードもそれぞれ購入したので、このふたつを並べてみてみたい。



 図の上が建仁寺にあるという宗達の「風神雷神図屏風」(国宝)。下が光琳の「風神雷神図屏風」(重文)
 まず背景の金箔であるが、上の宗達の金箔の方がきれいである。これは劣化なのか元からなのかは私にはわからないが、宗達の方が明らかにびったりしているが、光琳のものは黒い雲の割に金の部分が明るくないので絵が引き立っていない。
 次に風神の緑の体躯と雷神の緑の帯状のはためく襷、雷神の白い体躯と風神の白い袋、風神の紺色の帯状の襷と雷神の紺色の下帯、色の対比が面白いが宗達の方はどうも白が少し退色しているのであろうかはっきりしないところがある。
 また大きな違いは、雷神の眼である。まず、風神はともに雷神の方を見ている。しかし宗達の雷神の眼は中央の下を見ているのに対し、光琳の雷神の眼は風神を見ている。
 これは宗達の方は、初めに雷神が雷を鳴らしているところに風神がそれに和するようにあとから登場しようとしている関係になっている。光琳の方は両者が初めから和するように雷と風を起こしている状況に思える。あるいは競い合っている、力比べをしているようにも見える。
 実は私は今回NHKの日曜美術館で解説を聞いて初めて知ったことがある。これらの風神も雷神も笑っているというのである。昔40数年前の教科書に載っていた絵では怒っているのか笑っているのか判然としなかった。私は怖そうな神なので怒っている顔だとばかり思っていた。力みなぎる怒張の肢体とばかり思い込んでいた。
 指摘されてもう一度見てみると確かに怒っているのではない。どちらかというと楽しげにセッションしているジャズのドラマーとサックス奏者に見えなくもない。
 その場合でも両者の関係は微妙だ。やはり宗達は風神が後からおっとり刀で参加しようと駆けつけた場面。光琳は最初から丁々発止と力量を競っている場面である。
 両者の躍動感にも実感の違いがあることになる。宗達の風神は左から中央への運動方向を示している。雷神はその場でステップを踏んでいる形だ。
 光琳の雷神は上目づかいに風神の方ににじり寄るような動き、中央へのベクトルを示している。風神の方がその場でステップを踏んでいるように見える。黒い雲がその動きを暗示するのに効果的に描かれていると思う。

 全体としては、背景の金箔の色合いを除けば光琳の方がより色や構図やの対比を際立たせて完成に近づけたような感じである。その分荒削りの躍動感やコミカルな楽しさは減じているかもしれない。宗達の絵の魅力はそこにあると思う。あまり計算されつくされない荒削りの魅力、といってしまうには完成度は高いが‥。

 両者を比べてみてこんなことを感じた。ポストカードだけではこのことは気づかなかった。両者をじっくり見てはじめて気が付いた。あるいは私の錯覚なのだろうか?専門家の方はどのように考えているのだろうか。

 長谷川等伯「竹林七賢図屏風」「松に童子図襖」、曽我蕭白「山水図」、長澤蘆雪「牧童吹笛図」、白隠「百寿福禄図」の絵も展示されているが、残念ながら白隠以外あまり記憶にない。少し早目に歩き過ぎたのかもしれない。
 相変わらず白隠の字は独特だが、単体で他の作品と並べられると、あまりに独特で個性的な字でびっくりして敬遠してしまいがちである。他と比較する場所に登場すると違和感が強くて好印象にならないような気がする。

 さて展示では、海北友松の絵がいくつも展示されていた。雲竜図は前回見た感じを書いたので省略するが、「琴棋書画図」10幅の内前期2幅、「山水図」8幅の内前期4幅、「竹林七賢図」16面の内前期6幅、「花鳥図」10面(内2面消失)の内前期3幅等々である。どれも興味を惹かれたが、どちらかというと竹林七賢図が私は面白いと思った。七賢の顔がいい。
 いづれも全体を見ることのできないもどかしさを強く感じた。是非全体を見てみたい思った。


 
 若冲の雪梅雄鶏図はツバキの赤と鶏の鶏冠の赤との対比、鶏の白い毛と雪の白との対比の妙が絵の眼目ということなのであろう。しかし私はツバキの枝振りとそこに張り付いた雪の造詣がこの絵の眼目と見たい。赤はアクセントとしてとらえた、雪の立体感がこの絵の眼目と見ると絵に立体感が出ていいと思った。

 このほかの展示では、十一面観音菩薩坐像と毘沙門天立像が気に入った。
 また小野篁・冥官・獄卒立像は面白いものであった。等身大よりも一回り大きいと感じる。小野篁は長身であったというがあんなに大きかったのであろうか。それよりも小野篁が閻魔大王の業務を補佐していたという話がどのようなものなのか、知りたいものである。



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