Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

チリ地震津波

2014年04月02日 22時34分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 チリ北部では、本日8時46分のマグニチュード8.6の地震があり、津波が発生したとのこと。20時間後の津波到達とすると明日の午前4時過ぎが到達時点だろうか。

 チリ地震といえばこれまでで世界一の規模の地震である1960(S35)年5月のマグニチュード9.5が有名で、私も記憶している。9歳、小学校3年生の5月だから函館市に住んでいた頃のことである。大人の会話や新聞を覗いて写真を見たのを覚えている。
 そして2010年2月のチリ地震津波。マグニチュード8.8で史上5番目の大きさ。

 私は、2010年の津波被害と2011年の大震災の合間の2010年秋ごろに女川を訪れている。今は津波で流されてしまった仙石線の東名駅と陸前大塚駅の間の土地の登記の件で、石巻法務局を訪れ、矢本駅で東松島市役所を訪れ、仙台に戻る前に懐かしい女川駅に寄ってみた。女川駅と野蒜駅には学生時代に降りたことがある。
 2010年に訪れたときは、ちょうど中学生の下校時間であった。女川駅前に足湯の施設があり、中学生が足湯に浸かりながらお弁当を食べているのを見て、羨ましく思ったことを覚えている。港まで歩いて短時間見学してから、駅に戻る途中、港から200メートルもしないところにあった新しい寿司店に入り、一ノ蔵を2合を飲みながらナマコ酢をいただいた。新鮮で歯ごたえのいい、そして酢の具合もいい美味しいナマコに唸った。若いマスターだったと思ったが、チリ地震津波で店まで海水が入ってきたことなどを聞いた。あっという間に海水が店まで押し寄せたこと、後片付けが大変だったこと、などを聞いた。彼が無事であることを祈るのみである。あの店はたぶん流されたと思う。そして足湯をしながら弁当を食べていた男子中学生2人にはたくましく生き延びていてほしいと思う。

 昨年仙台を訪れたとき、たまたま東名駅のあったところを見せてもらった。住宅が並んでいた東名駅の周辺はすっかり様子が変わり、更地が多くなり、海側ではいまだ海水につかっている土地もあった。線路が無くなり、駅のプラットホームが寂しかった。山側の頂上付近で新しい線路の敷設工事のために切り開いているところも遠望した。道路も側溝も波をうっていて、排水がうまく機能しているとは思えなかった。
 考えようによっては、そのチリ地震津波と大震災の危険の迫った時期に私は訪れていたことになる。また2010年3月12日にも組合の会議で松島を訪れている。ひょっとしたら地震にも津波にも遭遇する可能性はあったことになる。

 チリ地震津波と聞いて、こんなことを思った。今回は被害が出ないことをひたすら祈るしかない。



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オーロラツアーの発端

2014年04月02日 19時52分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 オーロラツアーは、昨年の東北大学1970年度入学の理学部の仲間との約40年ぶりの再会の事前相談会の席上で話題にのぼったものであった。この「72年春・川内を語る東北大45Sの会」に集まった多くの仲間が、当時は天文にも興味を持っていた。 1971年度以降、私は東北大学教養部で活動していた公認サークル「星の会」の会長を2年目になって引き受けていた。やはり公認のサークルであるオーケストラとの掛け持ちであったので、もともと活動に制約もあったが、いい加減なところが先輩の眼にとまり、引き受けさせられたようだ。
 この会の相談会のメンバーにも、参加予定者にも、「星の会」の会員であった方が多くおられた。当時の天文ファンであったわれわれにとっては、外国に出向く機会なんてあまり無い中で、オーロラの鑑賞は共通の夢でもあった。
 そして、みんなが主体的に参加した大学紛争(決して受け身で一方的に影響を受けたのではない)のあおりで、「星の会」も活動停止・休眠=実質解体となった。学内の学生運動が極めて活発であった1971年に「星の会」は、観測会は企画もなかった。夏休みの合宿も2泊でキャンプ場でのバーベキュー大会となり、毎月のジンギスカン料理の宴会や麻雀大会だけが活動実態となっていた。もうひとつの所属サークルであるオーケストラは1971年の冬には私は退団している。
 何しろ「星の会」の「会長」である私は、クラスの自治委員と闘争委員会のメンバーを兼ね、学生大会の議長に連続してなり、臨時執行部の執行委員でもあり、ハンストを行った同じクラスのH君のスポークスマンをやり、バリケード封鎖の常駐隊・防衛隊の1人でもあった。みんながそんな私を当然のように受け入れてくれたし、多くの仲間がそれぞれに同じような立場を引き受けていた時代である。
 封鎖解除を巡る大騒動の果てに、ほとんどの学生が年度末試験ボイコットし、学年の7割が留年した1972年3月。その年の4月以降には「星の会会長」である私は、かろうじて天文観測会を二つ企画した。曇り空で不発に終わったジャコビニ流星群観測会、そして、しし座流星群観測会であったとおもう。勉強会などは3年間まったく何もしなかった。その1972年の末に1年下の仲間に会長を譲った覚えはあるが、それが誰だったかも覚えていない。

 このように名ばかりの会長でしかなく、「星の会」を学生運動の息抜きの場のような「(飲み)干しの会」にしてしまっていた私は、それなりに若干の後ろめたさは持っていた。
 そんな経過と思いがあり、40年後の現在オーロラツアーに何人かが参加するのであれば、せめて幹事・下働きとして役立ちたいと思い立ったのが、発端である。
 私にとっては、「星の会」と大学の紛争は同一の軌跡をたどっている。「星の会」のメンバーの大半が紛争の中で、大学を去ったり、勉学の意欲を喪失しながらも他の道を模索したり、この大学に幻滅して他の大学に再入学したり、就職のために卒業だけはしたもの今後の人生は絶対専攻科目には携わらないで就職すると決意した者‥と、それぞれが自分の力で自分なりのけじめをつけていった。むろん経験をきちんと糧としてこれまでとは違う視点で必死に勉学にまい進した者もいる。大学とは何か、学問をするとは何か、科学技術と社会のかかわりとは何か、ということを必死で考え続けた仲間もいる。
 そういった意味でも皆が主体的にその時代とそれぞれの自己を引き受けていったと思う。専攻科目の勉強よりも、社会や政治、制度や人生などいろいろなことを主体的に実に真剣に考え、勉強した場であった。

 私としては、40年経過してようやくに「星の会会長」の仕事らしい仕事をしたのかもしれない。



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