Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日から始まる講座

2014年07月01日 23時06分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 明日の夕方からまた新しい講座が始まる。明日から始まる講座は「仏教の世界への招待」ということで、講師は清水眞澄青山女子短期大学講師。3回と短い講座だが、私の問題意識に連なる講義を期待している。

 「往生要集1」(東洋文庫)。幾度か読破に挑戦したが、最初の地獄の部分を30ページも読むと「もういいや」と投げ出してしまう。これを幾度もした。回数はもう覚えていない。最初の20頁から30頁だけが手垢で汚れている。
 文章は難しくはないのだが‥。これでもかこれでもかと記す地獄の様相を読み続ける気力は無かった。気味が悪いというのではなく、いつ果てるともなく長く続く執拗とも思える描写を前にすると、読むこと自体が地獄の様相に思えてしまうのだ。多分この執拗な記述が往生要集という書物の眼目であるのだろう。



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宿題と忘れもの

2014年07月01日 21時25分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 宮崎進展の感想と引き続きの宮崎進著「旅芸人の手帖」の感想をアップして、肩の荷がとりあえずおりた感じである。宿題が終わった時のような安堵感がある。
 残る宿題は、通りがかり人様にした長谷川等伯の水墨画の評価、そして日野草城の俳句について。このふたつはやると宣言してしまったものなので、逃げるわけにはいかない。自分で自分の首を絞めた形だが、いい刺激でもあることは確かだ。

 実はその前にこなさなくてはいけない宿題を忘れてしまっていた。このブログで紹介した「銀座井上画廊20周年記念展」として行われる三つの展覧会、自分で行くと宣言しておりながらすっかり忘れてしまっていた。
 紹介してくれた井上雅之様には大変申し訳なく思っている。お詫びをしなくてはいけない。それよりも楽しみにしていたものなのでそれがとても残念である。現代の画家の作品に触れるいい機会であったのにとても悔やまれている。
 スケジュール帳に記載しようとして、机の上に置いているうちに本の下敷きになってしまっていた。
 スケジュール帳にはすぐに記載しなくてはいけない。

 さて本日の横浜の最高気温は29.7℃。いつもは東京都内よりも少し気温が低めなのだが、今日は0.1℃だけだが高かった。
 ブログを更新したのち14時に家を出て、組合の会館まで1万歩、帰りは途中遠回りして1万6千歩を歩いた。行きはウォーキングに近い速度で1時間20分だが、日差しが強く汗をたっぷりかいた。組合の会館で汗をぬぐい喉を潤した後、所用を果たしながら40分ほど休憩をとった。ちょうどいいところに会館があり、いつも助かる。
 帰りは曇り空となり日差しは無かった。行きと同じような速度だったが休憩を3回ほどいれて倍の2時間40分かけた。




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宮崎進「旅芸人の手帖」を読む(2)

2014年07月01日 12時48分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 漂泊と土着、対立するような把握かもしれないが、どちらも社会の底辺の人々のしたたかで強靭な暮らしの表現とすれば、共通の把握が出来そうである。
 漂泊と定住、移民と土着などという論は私は不勉強にして知らないが、なかなか惹かれるものがある。しかしここではそれらを踏まえてはいない。私の独断と偏見で書いている。
 宮崎進が「旅芸人の手帖」でしるした時期は1960年代から1979年までの時代である。ちなみに私が1964年~1975年まで中学・高校・大学、そして就職して数年の時期と重なる。1960年代に描かれた旅芸人の世界があったことは理解しているが、1970年代末まで続いていたことには驚いている。私は1975年にようやくの思いで職を得て、ようやく軌道にのったころである。こんなことを考えながら、この本の頁を幾度もめくった。

<凍る月(1965)> 
  
 60年代半ばには「北の風景にひかれ、酷しい風土にへばりついて生きる人たちを描いた。長いシベリア抑留のためかもしれない。とにかくその頃、北の辺境を歩いて回っていた。」「北国の鎮まる大地に何を見つめ、歩み続けるのか寄り添う芸人の影はただ荒涼として侘しい」と記している。

<小屋(1967)> 

 この頃画家は、北の辺境の町を放浪しながら、旅芸人の一行との交流を行っていたかのようである。画家と北辺の町と墨東を結びつけたのはどういう機縁であったかは記載されていない。北辺の町へ惹かれる気分と、旅芸人との交流、そして戻ってくる墨東という町への親和性が、画家のある意味で死の体験からの帰還、回生のために通過しなければならない黄泉比良坂であったのであろうか。
 いつしか旅芸人との交流が主となり、そこの女性を描くことで画家の道を歩きはじめることとなったといえそうだ。土着の町、第一次産業、第二次産業を主とした北辺の町の佇まいを彷徨する日々から、漂泊の人々とに寄り添いながら彼ら、彼女らへの内部に視点が移動していく。人との関係が具体的に成り立っていったようである。回生の開始である。
 同時に北辺の町並への親和性は、次第に遠ざかる。町並みから人々の生活の匂いを嗅ぎ分けることよりもそこに住む人々への着目も進行している。
 しかし北辺の町に「へばりついて生きる人たち」よりも、この町を通過する漂泊の人々への関心の移動の必然性は、画家個人の資質によるとしか言いようは無いのであろうが、そこまでたどることは今の私の力量ではそれは不可能である。

<冬(1968)>    <北国の女(1968)>

 この時期以降には人物のクローズアップが多くなるようだ。少なくともこの「旅芸人の手帖」に取り上げられている絵は風景画は少なくなっている。
 「吹き抜ける風のように、孤独な魂の歌を唄いたい。執着するものもなく、失う何物もない。ただ過ぎていくその日のために生きる。」
 このような表明に、画家が北辺の町並に惹かれる一方で定住・土着という着地が出来ない指向性を身に着けたことがうかがえる。それは「執着するものもなく」という言葉にだけ現れる。「孤独な歌」も「失う何もにもない」「ただ過ぎていくその日のために生きる」は、漂泊と土着を区別するものはない。違いは生きる糧としての生産手段への「執着」だけが両者を区別するものとしてとらえられている。
 多分私の心の底のどこかでの分岐は、ここに帰着している。宮崎進への私の感覚的な親和と違和はここまで降りてくれば、了解が出来る。
 多分このような意見表明の時期と、画家独自の人間表現・人体表現への拘り、造形への拘りが具体化したのがこの1960年代の後半以降なのかもしれない。それが人物のクローズアップが多くなる理由だと思う。技術的なこだわりは私にはわからないが、この時期以降の人物の表情、ポーズ、肌の質感、そして造形・構図・視点はとても惹かれる。

<裸(1969)>    <腰かける女(1973)> 
<踊るマレーの女(1974)> 
<女(1976)>    <伏せる女(1978-79)> 

 この「旅芸人の手帖」の時期、1969年香月泰男を訪ねたり、1972-74年に渡欧し、1976年に多摩美術大学講師となるなど、画家としての確立期にあたるようだ。
 1980年以降風景画へ至り、出生地の山口県への関わりなどを経て、1990年代以降は、シベリア抑留やヒロシマへの拘りを続けていくことになる。

 さてこの「旅芸人の手帖」をめくっていて気付いたことがもう一点ある。それは青い色のことである。

<立ちあがる生命(2003)> 

 展覧会では「立ちのぼる生命」のあの鮮やかな青は何に由来するのか、何を象徴しているのか、私にはもうひとつわからなかった。あの一連の展示では冒頭に置かれているのだが、孤立して見えた。他の展示ではあの青が何処にも表れないのである。一般的には力強い生命への賛歌ともいえなくもない。それでは少し一般化しすぎると思っていた。
 この「旅芸人の手帖」に掲載されている絵に共通しているのは、青い色である。背景の青にもくすんだ青、鮮やかな青がさまざまに出現する。皮膚にも青い色が影のように映る。
 この1960年代から1970年代の画家にとっては確立期の時期に現れた青は、肯定的な色である。
 1990年以降、死と隣り合わせのシベリア体験や、ヒロシマの連作など「死」を主題とした一連の作品を手掛けていた。それは画家にとっての出発点をえぐるように作品化していた。そこからあらためて人との関わり、社会とのかかわりを模索しようとすると、当然にも回生の時期と重なる1960年代以降の画家としての確立期の体験に、回帰するのではないだろうか。この青は画家としてだけではなく、画家の人間性の回復期の象徴ともいえる色ではなかったのだろうか。
 旅芸人の日常、人物像の背景に描かれている青は、人の肌にも反射しているが温かみのある青である。色彩学的には寒色ではあるが、人物が醸し出す温もりや温かみの放射のような色合いである。画家にとっては北辺の寂しい町並ではなく、人の関係がもたらす親和性のシンボルのような色なのではないだろうか。
 あの「立ちのぼる生命」の青はシベリアの体験の中にも、ヒロシマの惨状の中にも微かにある人間社会への肯定的な画家の思想表明に思えた。



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「死」を匂わせてはいけない

2014年07月01日 01時46分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
6.29新宿での自殺未遂を聞いて


 死んではならぬ

死んではならぬ
死では未来は描けぬ。死で未来を描いてはならぬ

のたうちまわろうが、蔑まれようが、
辱めを受けようが、卑怯と罵られようが、
生き延びなければならぬ
死んではならぬ

君の敵は、過去の死を祀って、「未来ならざる未来」の幻想を描く
君は、死を手段にしてはならぬ
   死を目的にも、理想にもしてはならぬ
生き延びて、君の敵にまとわりつかなければならぬ
君が望む政治は、死の匂いのしない未来を描かなくてはならぬ

人は、君の死によって、君の理想に死の匂いを嗅ぎ分けてしまうだろう
   だから君は「死」を匂わせてはならなかった
人に絶望してはならぬ
   人は、君が生き延びることで君を信ずるはずだ

君の生は、死が目的でも、手段でも、理想でもなかったはずだ
戦車の前に立ちはだかる死は、もうあってはならぬ
人に踏みつけられる死は、もうあってはならぬ
バリケードの上に流れる血は、もう流されてはならぬ

私たち団塊の世代はあまりに多くの死を見過ぎてしまった
   だからといって死を引き寄せてはならぬ

死は、残されたものが悼むもの
   悼まれることを願う死は、手段におちいる
「死」は讃えてはならぬ
   讃えられる「死」は、死が目的になっている

君の敵は「死」を祀ることに腐心しているではないか
だから「死」を祀ってはならぬ
   祀られる「死」は理想を描いてはくれない

死が匂わない未来のために
断じて
死んではならぬ



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