漂泊と土着、対立するような把握かもしれないが、どちらも社会の底辺の人々のしたたかで強靭な暮らしの表現とすれば、共通の把握が出来そうである。
漂泊と定住、移民と土着などという論は私は不勉強にして知らないが、なかなか惹かれるものがある。しかしここではそれらを踏まえてはいない。私の独断と偏見で書いている。
宮崎進が「旅芸人の手帖」でしるした時期は1960年代から1979年までの時代である。ちなみに私が1964年~1975年まで中学・高校・大学、そして就職して数年の時期と重なる。1960年代に描かれた旅芸人の世界があったことは理解しているが、1970年代末まで続いていたことには驚いている。私は1975年にようやくの思いで職を得て、ようやく軌道にのったころである。こんなことを考えながら、この本の頁を幾度もめくった。
<凍る月(1965)>
60年代半ばには「北の風景にひかれ、酷しい風土にへばりついて生きる人たちを描いた。長いシベリア抑留のためかもしれない。とにかくその頃、北の辺境を歩いて回っていた。」「北国の鎮まる大地に何を見つめ、歩み続けるのか寄り添う芸人の影はただ荒涼として侘しい」と記している。
<小屋(1967)>
この頃画家は、北の辺境の町を放浪しながら、旅芸人の一行との交流を行っていたかのようである。画家と北辺の町と墨東を結びつけたのはどういう機縁であったかは記載されていない。北辺の町へ惹かれる気分と、旅芸人との交流、そして戻ってくる墨東という町への親和性が、画家のある意味で死の体験からの帰還、回生のために通過しなければならない黄泉比良坂であったのであろうか。
いつしか旅芸人との交流が主となり、そこの女性を描くことで画家の道を歩きはじめることとなったといえそうだ。土着の町、第一次産業、第二次産業を主とした北辺の町の佇まいを彷徨する日々から、漂泊の人々とに寄り添いながら彼ら、彼女らへの内部に視点が移動していく。人との関係が具体的に成り立っていったようである。回生の開始である。
同時に北辺の町並への親和性は、次第に遠ざかる。町並みから人々の生活の匂いを嗅ぎ分けることよりもそこに住む人々への着目も進行している。
しかし北辺の町に「へばりついて生きる人たち」よりも、この町を通過する漂泊の人々への関心の移動の必然性は、画家個人の資質によるとしか言いようは無いのであろうが、そこまでたどることは今の私の力量ではそれは不可能である。
<冬(1968)>

<北国の女(1968)>
この時期以降には人物のクローズアップが多くなるようだ。少なくともこの「旅芸人の手帖」に取り上げられている絵は風景画は少なくなっている。
「吹き抜ける風のように、孤独な魂の歌を唄いたい。執着するものもなく、失う何物もない。ただ過ぎていくその日のために生きる。」
このような表明に、画家が北辺の町並に惹かれる一方で定住・土着という着地が出来ない指向性を身に着けたことがうかがえる。それは「執着するものもなく」という言葉にだけ現れる。「孤独な歌」も「失う何もにもない」「ただ過ぎていくその日のために生きる」は、漂泊と土着を区別するものはない。違いは生きる糧としての生産手段への「執着」だけが両者を区別するものとしてとらえられている。
多分私の心の底のどこかでの分岐は、ここに帰着している。宮崎進への私の感覚的な親和と違和はここまで降りてくれば、了解が出来る。
多分このような意見表明の時期と、画家独自の人間表現・人体表現への拘り、造形への拘りが具体化したのがこの1960年代の後半以降なのかもしれない。それが人物のクローズアップが多くなる理由だと思う。技術的なこだわりは私にはわからないが、この時期以降の人物の表情、ポーズ、肌の質感、そして造形・構図・視点はとても惹かれる。
<裸(1969)>

<腰かける女(1973)>

<踊るマレーの女(1974)>

<女(1976)>

<伏せる女(1978-79)>
この「旅芸人の手帖」の時期、1969年香月泰男を訪ねたり、1972-74年に渡欧し、1976年に多摩美術大学講師となるなど、画家としての確立期にあたるようだ。
1980年以降風景画へ至り、出生地の山口県への関わりなどを経て、1990年代以降は、シベリア抑留やヒロシマへの拘りを続けていくことになる。
さてこの「旅芸人の手帖」をめくっていて気付いたことがもう一点ある。それは青い色のことである。
<立ちあがる生命(2003)>
展覧会では「立ちのぼる生命」のあの鮮やかな青は何に由来するのか、何を象徴しているのか、私にはもうひとつわからなかった。あの一連の展示では冒頭に置かれているのだが、孤立して見えた。他の展示ではあの青が何処にも表れないのである。一般的には力強い生命への賛歌ともいえなくもない。それでは少し一般化しすぎると思っていた。
この「旅芸人の手帖」に掲載されている絵に共通しているのは、青い色である。背景の青にもくすんだ青、鮮やかな青がさまざまに出現する。皮膚にも青い色が影のように映る。
この1960年代から1970年代の画家にとっては確立期の時期に現れた青は、肯定的な色である。
1990年以降、死と隣り合わせのシベリア体験や、ヒロシマの連作など「死」を主題とした一連の作品を手掛けていた。それは画家にとっての出発点をえぐるように作品化していた。そこからあらためて人との関わり、社会とのかかわりを模索しようとすると、当然にも回生の時期と重なる1960年代以降の画家としての確立期の体験に、回帰するのではないだろうか。この青は画家としてだけではなく、画家の人間性の回復期の象徴ともいえる色ではなかったのだろうか。
旅芸人の日常、人物像の背景に描かれている青は、人の肌にも反射しているが温かみのある青である。色彩学的には寒色ではあるが、人物が醸し出す温もりや温かみの放射のような色合いである。画家にとっては北辺の寂しい町並ではなく、人の関係がもたらす親和性のシンボルのような色なのではないだろうか。
あの「立ちのぼる生命」の青はシベリアの体験の中にも、ヒロシマの惨状の中にも微かにある人間社会への肯定的な画家の思想表明に思えた。
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