昨日取り上げた弦楽五重奏曲がブラームスの後期から最晩年にかけての雰囲気の曲ならば、この弦楽六重奏曲は若々しいフラームスの息吹を堪能できる曲である。
ブラームスはベートーベンという先行者との格闘を経て自立していくわけだが、自作をベートーベンの同種の作品との比較してしまうという意識が先行し、自信を持てなかったようだ。
弦楽アンサンブルもベートーベンの弦楽四重奏の16曲という大きな壁を前に逡巡していたようだ。さらにシューベルトのチェロを加えた弦楽五重奏という試みを引き継いで、さらにビオラを加え六重奏として、ベートーベンにはない編成の弦楽アンサンブルとして世に問うたということのようだ。慎重というか自意識過剰な控え目、過度の自信の無さが初期のブラームスを解く鍵である。
この過度に控えめな性格は恋愛でも発揮されたようで、25から26歳にかけてアガーテ・フォン・シーボルト嬢との恋愛が破局している。なお、アガーテは江戸時代の1823年に日本に来たフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従兄弟の娘である。
しかしビオラとチェロを各1本加えた、中低音に厚味のあるアンサンブルは私の好みである。ビオラとチェロの活躍はベートーベンの弦楽四重奏曲よりも私にはとても優れたものに思える。あブラームスらしい新しい発見、創造だと思う。
第1番は1860年27歳の作品である。
先に記した恋愛の破局とそのことから一定の落ち着きを反映しているのかと思えてしまうほど、この翌年にできたこの曲はとても甘い曲想である。それゆえか特に情感たっぷりの第2楽章は、ルイ・マル監督の「恋人たち」(1959)で使われたことは、この曲をさらに有名にした。あまり映画を見ない私も学生の頃見た記憶があるが細部は覚えていない。この曲を聴くために見に行った気もする。
この前年にピアノ協奏曲第1番を完成したが、聴衆からは退屈であるという非難がおこりさんざんな目にあった。かなり精神的にキツイ状況のなかで作られた曲である。感情・情緒に流され、管弦楽法などの技法が追い付かないなどの欠点が現代の評者からは指摘されている。
ブラームスらしい変奏曲の形式のこの曲ではある。しかし私などには少々甘く流されてしまったようで、メリハリがないような気がするのは私だけだろうか。情緒があまりに先行しすぎているのかもしれない。
実はこの第2楽章、クララ・シューマンに献呈されたのだが、献呈されたクララもちょっと戸惑ったのではないかと勘ぐってしまう。あるいはクララの存在がかの恋愛の破たんの原因かもしれない。これは私のあくまでも推測でしかないが‥。
第2番は、第1番から5年経って作られた。このCDの解説では第1楽章の「A-G-A-D-H-E」(アガーテ)の音型は7年前のアガーテの思い出として挿入したと記載しているが、私はこれに否定的である。他の解説書でも肯定するブラームスの言及もないし伝記作者以外にも証人はいないようだ。
この第2番は第1番とどうような初期の作品だが、第1番よりさらに進化しているので、そこまで事件を惹きづっているようには思えないし、それに引きづられたような甘い曲ではないとおもう。
映画の影響もあり戦後脚光を浴びて有名になった第1番にくらべ、演奏される機会は少ないが、曲としてはこの第2番の方が完成度も高いような気がする。ブラームス特有の甘い旋律は適度に処理され、情緒に流されていない。室内楽曲としてゆったり音響の楽しみ、アンサンブルの妙味が伝わってくる。各パートに旋律が移行する処理も、旋律と分散和音の調和も抑制が効いていると思う。旋律に含まれる情感というのは、強調しすぎると押し付けになる。感情は押し付けになると上滑りして底が浅いメロドラマになってしまう。
第1楽章の冒頭からビオラのうねるような伴奏の上にバイオリンとチェロが主題を交互に奏でる掛け合いに魅了されてしまう。この呈示部から展開部に移るときに「アガーテ音型」が出てくるが、特に重要なパッセージとは思えない。経過的な音型なので、それほど重要な役割はないと思える。私の聴き方が悪いのかもしれないので、断定はできないが‥。
第2楽章のスケルツォとトリオの極端ともいえる曲想の転換がいかにもブラームスらしいと思える。早いトリオの後半に出てくるバイオリンのユニゾンが美しい。
第3楽章は変奏曲のスタイルだが、バイオリンが奏でる主題は実に不思議な旋律である。美しい終結は特筆もの。
第4楽章はシンフォニーのような厚味のある華やかな終結になっている。
この弦楽六重奏曲の2つの曲は、若い頃の同時代の作だが、雰囲気は随分と違う。第一歩のような第1番と、次のステップを果たした充実の第2番とでも云ったらいいのだろうか。
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