Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

秋の雨

2017年10月05日 23時33分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 明日・明後日とは雨の予報になっている。秋は晴れた日が多い印象を持つ人が多いが、実際は雨の日が多い季節である。晴れると気持ちのいい秋晴れ、空も済み切って雲が高く、風も気持ちがいい。晴れた時の好印象が記憶を閉めているためではなかろうか。
 秋霖(しゅうりん)、秋黴雨(あきついり)というのは梅雨時のように降り続く秋の長雨を指すとのことである。さびしさのイメージを強く連想させる季語であるという。秋時雨というのは晩秋の季語で、時雨のように寒さを強く感じさせる季語をいう。秋時雨はもっと寒くなる晩秋の季語で、寂しさをいっそう漂わせる。

★秋の雨しづかに午前をはりけり      日野草城
★秋雨や夕餉の箸の手くらがり       永井荷風
★秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな      中村汀女


 第1句、「しづかに」というのが季語の「秋の雨」と呼応している。「さびしさ」が生活から漂ってくる。私の毎日を見透かされたような句。ただし私の場合は「しづかに」というよりは「いつの間にか」という情けない意味合いの方が強い。残念である。
 第2句、これは私の好きな句。夏と比べて、日のくれるのが早くなり、さびしさが暗がりでいっそうひきたてられる。永井荷風のいつもの夕餉の時間は夏とは変わっていないのであろう。その分、昏くなっている。
 第3句、教科書にも載る有名な句。これは秋、晩秋に近い夕方の句。
 

自分の内部に鋏を入れる

2017年10月05日 20時39分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
枝の繁茂しすぎた山野の樹は
風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
密生した枝を払い落す--と
庭師の語るのを聞いたことがある。

人は、どうなのだろう?
剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。


 吉野弘詩集「日常さまざま」の末尾にこのような一節があった。はじめの4行は私も聞いたことのある話である。しかし最後の3行まで踏み込んで考えたことはなかった。だか、とてもいい比喩である。とても魅力的な比喩である。
 いい作品というのは詩でも小説でも、ひょっとしてこれは自分のことなのかな、と感じさせたり、俺もそんな風にことを考えたことがある、同感だ、とという気持ちが湧いてきたら、あるいはこんな表現を自分もしてみたい、出来ると思わせたら、それはきっといい作品だと思う。
 このことを基準とすると、この吉野弘の作品はかなり成功しているのではないか。
 日々、さまざまな表現に腐心しているとき、苦心している悩みとははなれた場所から、ふと新たな考えや、表現や、リズムの鼓動がわかるようなところがある。そんな感じを表現の沸点と呼んでみることにしよう。
 剪定鋏を内部に入れ、小暗い自我を刈りこむ、という表現は、そんな沸点からもたらされたものと思える。そんな沸点に上りつめる意識が、頂点に達した時、雲が切れて展望が開けるように、視界が開ける。視界が開けて見通しなりが明瞭になる。沸点は詩なり作品の生れ出てくる場所であると断定できる。
 ここまで上り詰めた後は、新たな表現の模索のために、再び言葉の海に潜っていく。それは自信の内部にため込んだ、さまざまな試みの切れ端が発酵をまっている場所でもあるようだ。

作業のやり直しは疲れる

2017年10月05日 10時13分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩布団に入ってから、本日の会議の資料の間違い、補足が必要なことに気がついた。すぐに起き出して修正しようとしたものの、そのまま眠気の誘惑に勝てずに寝てしまった。現役の頃なら多分起き出してきてこなしてしまうだろう。朝は出勤しなくてはいけないので。しかし退職した現在は朝が楽である。
 今、修正が無事おわり、打ち出しも完了。

 本日の会議と並行して、組合の会館の一角に作った退職者会のスペースで、業者がパソコンの設定作業の続きを行う。単体としては使えるのだが、ソフトをインストールにあたった「インターネット環境必須」となっているものばかり。購入したパソコンに事前に入っているワードもエクセルもまだ使えない。画像処理ソフトも新たにインストールできていない。机の上の整理のために若干の造作もしてくれるよう依頼してある。
 この環境が整うと作業も随分楽になる。