「木枯し」の句というと先ほどの山口誓子の句のほかに私は、次のふたつの句が好きである。
★こがらしや何に世わたる家五軒 与謝蕪村
★木がらしや目刺に残る海の色 芥川龍之介
蕪村の句はさらに有名な「五月雨や大河を前に家二軒」(1766年)を思い出す。二軒と五軒、どう違うのか。五月雨の句の二軒ともなれば、心細さが際立つ。五軒といえばとりあえず自足した集落と思えるので、その場所ならではの生活の糧を得る何かを想像させたのだろうか。二軒よりは少し頼りがいのありそうな雰囲気がある。というのが私の想像である。
こがらしの句といい、五月雨の句といい、数字のイメージが微妙なニュアンスを求めているように思う。「寒月や枯木の中の竹三竿」「蓮の香や水をはなるゝ茎二寸」もそうだ。単に音の数合わせではないものを感じる。
芥川の句も有名だ。目刺にわずかに残る皮膚の青から海の青を連想するイメージの飛躍、想像力の豊かさ・自由さに私は驚いた記憶がある。目刺は春の季語ではあるが、ここでは「木がらしや」が強いので冬の句であることは間違いない。
★こがらしや何に世わたる家五軒 与謝蕪村
★木がらしや目刺に残る海の色 芥川龍之介
蕪村の句はさらに有名な「五月雨や大河を前に家二軒」(1766年)を思い出す。二軒と五軒、どう違うのか。五月雨の句の二軒ともなれば、心細さが際立つ。五軒といえばとりあえず自足した集落と思えるので、その場所ならではの生活の糧を得る何かを想像させたのだろうか。二軒よりは少し頼りがいのありそうな雰囲気がある。というのが私の想像である。
こがらしの句といい、五月雨の句といい、数字のイメージが微妙なニュアンスを求めているように思う。「寒月や枯木の中の竹三竿」「蓮の香や水をはなるゝ茎二寸」もそうだ。単に音の数合わせではないものを感じる。
芥川の句も有名だ。目刺にわずかに残る皮膚の青から海の青を連想するイメージの飛躍、想像力の豊かさ・自由さに私は驚いた記憶がある。目刺は春の季語ではあるが、ここでは「木がらしや」が強いので冬の句であることは間違いない。