Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

立待月

2017年11月05日 23時30分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は月齢が16.8で、立待月。十五夜から数えて2日目の月である。天頂付近に煌々と照っており、気分が良かった。立ちどまることなく歩いたので、星はひとつも眼に入らなかった。南の空に群雲がいくつかあったが、天頂付近に雲はあまりなく、気持ちの良い月の光でぁった。
 明日は午後から若干の作業があり、お手伝いで出かける。朝のうちに出かけて、書店と家電量販店をいつものように見て回る予定。

国吉康雄の女性像

2017年11月05日 21時51分39秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 2004年、東京国立近代美術んかで開催された「国吉康雄展」から女性像を並べてみた。
 この展覧会では実に多くの女性像が展示されていたが、私は特に女性像に着目して感想を述べてはいなかった。このブログにリンクの貼ってある「時には本の話でも‥」【⇒こちら】の東京国立近代美術館の所蔵作品展の感想に刺激を受けて、改めて図録をめくってみた。
 国吉康雄の女性像は顔が非常によく似ている。同一人物を長期間にわたって描いたと思われる。幾つかを並べてみる。モデルは1935年に画家が再婚した女優・ダンサー・モデルのサラ・メゾと思われるが、私自身は断定できていない。

 始めの作品は「カフェ」(1937年、ホイットニー美術館蔵)、次が「私は疲れた」(1938年、ホイットニー美術館像)、3枚目は「夜明けがくる」(1944年、岡山県立美術館蔵)、4枚目が「女は廃墟を歩く」(1945-46年、メナード美術館蔵)。この女性の表情を追ってみると、国吉康雄の社会に対するかかわり方、姿勢が反映されているように思える。
 1930年代の女性像はしたたかに生きてはいるが、どこか退廃的で、投げやりでもあり、生きる意欲というものがあまり感じられない。退廃をそのまま受け入れて、底に身をひたしているような画家の生き方がどこかから匂ってくる。
 1940年代、特に第二次世界大戦となった1940年以降の作品は、国吉のアメリカでの日本人排斥運動を背景として、故郷喪失者としての国吉康雄の内省的な姿勢を示しているように思われる。「夜明けがくる」に描かれた女性からは退廃の匂いは私は嗅げなかった。終戦直後の「女は廃墟を歩く」に至って、実にたくましい生活者としての女性像となっていく。いづれも同じような顔立ちの女性であるが、社会とのかかわりでは受動から能動へ、すべてに受け身から自らが何かをつかみ取ろうとする強固な意志を私は感じ取った。

 この時期、国吉康雄は「ここ数年間の戦争は、わたしのたくさんの作品の背景をなしてきた。なにも戦場を描く必要はない。破壊や生命の喪失、生と死との間の彷徨、そして孤独といった、戦争の暗示を描く」と述べている。
 ここに国吉康雄の祖国批判、そして米国流民主主義なるものの欺瞞をもとらようとする姿勢、社会への強烈な違和感と、それに立ち向かう作者を感じ取ることができるとおもう。しかしこれ以降、国吉康雄は「時代の感情的な二重性を描いている」と述べた仮面をかぶった人物像に移行していく。
 そして美術家組合の会長などにつくが、時代という嵐に飲み込まれたかのように、新たに冷戦といった社会状況の中での苦闘が開始される。残念ながら戦後まもなく1954年、胃がんのため国吉は63歳で没してしまう。

散歩は秋にかぎる

2017年11月05日 17時12分38秒 | 読書
 秋は、季節を強く体感する季節である。さまざまな事象が季語として取り上げられている。秋の気分を味わいながらの散歩もまた楽しい。

 買い物のポーターを頼まれ、ようやく家に戻った。いつものとおり、コーヒーチェーン店のブレンドコーヒー1杯の報酬。

 少し歩き足りないので、これから夕食の時間までウォーキングに出かけることにした。

桜紅葉

2017年11月05日 14時34分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 午前中の会議が終わり、昼食&一服中。気温は低いようだが、昨晩とは違い風も弱く気持ちの良い天気である。

 団地のなかでは桜紅葉が美しい。あまり美しいという評価はないのだが、私は最近好みになってきた。黒い斑点が散らばったりして、それを嫌う人も多い。春の花、葉桜などに引きづられてみてしまう。まったく別のものとして風情を味わうか、春の様相との落差に着目するか、見方はいろいろある。

★桜紅葉まぬがれ難き寺の荒れ       村田脩
★紅葉して桜は暗き樹となりぬ       福永耕二

 これはちょっと特異な感覚かな、と感じた。青葉が濃くなって暗くなるという感覚ではなく、日が射しこむようになってからの時期の「暗き樹」という捉え方、ここにはどんな感情が籠っているのであろうか。
★黄泉(よみ)の師よ桜はすでに紅葉して   中村キヌ子
 亡き師を偲ぶに、他の紅葉ではなく桜紅葉でなくてはいけない理由。桜を愛した人だったのか、他の紅葉する木々のように光り輝き、世間の耳目を集めるのではなく、ある意味地味で世に出るには不器用な人柄だったのだろうか。そこに慕う根拠があるような師であったのであろうと想像してみた。