昨日「1968年-無数の問いの噴出の時代」展(東京国立歴史民俗博物館)へ行ってきた。私の社会への原点は1968年でもある。大学受験をひかえた理系希望の高校2年生であった。ヴェトナム戦争・チェコのプラハの春・反戦闘争・三里塚闘争であり、日大・東大闘争である。そして1970年以降の衝撃は水俣の闘いと沖縄の闘いである。
1971年以降、仙台の地で遅まきながら全共闘運動というものにこだわり始めた。始めは外側から、次第に内側から直接の体験などをとおして大学での闘争に関わったが、そのかかわりの原点はこれらの闘争である。このかかわりが66歳の今に至るまでの私の社会とのかかわりの起点でもあった。さらにその体験の大きな曲がり角は赤軍派のあさま山荘の事件であり、内ゲバである。良くも悪くも日本の社会が面と向かった事象からは、私は自由ではない。
だが、あれから半世紀近く、遅れてきた世代とも言われながら直接かかわったものからすると、あの時代の体験や経験は、社会的に記憶のはるか彼方に消え去ろうとしている。アジア太平洋戦争という極めて大きな体験すら、戦後70数年で風化させられようとしている。何らの教訓すら残さずに逆に美化されようとし、戦後70年の出発点が否定される昨今の状況を見ると暗然とする。同時に記憶の風化に抗うこととは何なのかも、また課題である。
私も4年前に仙台での学生運動の仲間とささやかな「同窓会」を開いた。それぞれの胸の内に澱んだ体験を40年という時間に耐えた目で眺め直してみたかったのだ。しかし同時にそれ以降の4年間という短い月日は、集まった20数名の内の3名が病気で他界するという、記憶の消滅、かかわった存在そのものの消滅という事態になっている。記憶は記憶として各自の旨の中で澱のように沈殿し、そして消えていく。残されるものは、同時代を生きた他者、そして家族のかすかな記憶の中でしか残らないものであることを、あらためて認識した。
当時のビラや写真や報道やさまざまな残された「モノ」をいくら集めても、あの熱気も苦渋も、葛藤も再現することは不可能である。ただ懐かしむだけならば、それはその体験事態を自ら小ばかにしているともいえる。私は記憶と「モノ」といういわば体験の内と外との落差の大きさにたじろいでしまう。
しかし同時に、展示された「モノ」や小さな落書きに、胸の奥に澱んだ記憶がスーッと視界が晴れるようなこともある。要はものの見方、観察の仕方、そして追体験の深度を探るということも可能である。あるいはあまり関わらなかった事柄への親近感の増大など、新しい観点も生まれる可能性を否定することはできない。
そんなことを思いながら会場を巡ってきた。九州大学へのアメリカ軍ジェット戦闘機の墜落事件は、記憶を呼び戻すことができた。確かにあの事件は私の記憶のあまりに奥にあり、忘却しかけていた。
横浜新貨物船反対運動は私はかかわっていないし、関わりたくなかった。運動への違和感がぬぐい切れなかった。それは何なのかは展示をみてもわからない。思い出す機会があるたびにいつもわからずに再び忘却していく。一方で、相模原補給廠-米軍戦車輸送反対闘争が取り上げられていなかったの不満だったが、すべてを展示することは出来ないのでやむを得ないとは思っている。
大学闘争については私には当時の熱気が伝わる展示であると同時に、今でも燃焼し尽くせなかったわだかまりと、躊躇し続けた私の思いが複雑によみがえってくる。来年か、再来年再び仙台の地で「同窓会」をしたいとの声もあり、わたしなりのアプローチを考えつづけたいと思う。
この企画展にはたくさんの同世代、先行世代が集まっていた。旗や手刷りの謄写印刷機などを見て、「懐かしい」という声があちこちから上がっていたが、私はなつかしさではなく、そこに貼り付いている当時の人々の思いが重く伝わり、声が出なかった。例えば謄写版を見て、私は自分が拙い文章を綴ったビラをつくるときの逡巡や羞恥、ビラを受け取るであろう友人たちのことを考えながら徹夜で印刷した苦しさ、しんどさ、出口のない親との葛藤をまず思い出す。本当の体験の深化はそこからしか始まらないというのが、私の思いでもある。
若い世代も幾組か見かけた。彼らはあの陳列された「モノ」から何を感ずるのであろうか。私の体験をもとめられれば語ることはやぶさかではないが、自ら彼らに語ることの空しさも同時に感じる。若い世代は彼らなりに自ら立ってほしいのだ。まだまだ私には語るだけの力量がない。