昨日のブログの「葱と刃」に《ホロフェルネスの首を斬るユーディット》(1620年頃の作、アルテミジア・ジェンティレスキ、ウフィツィ美術館)を貼り付けてみた。俳句とは直接関係はない絵画だが、私の文章の下敷きなので敢えて加えた。
さらに「葦原の山姥」様に指摘をいただいた「寝首を描く」2か所を「寝首を掻く」にあらためた。いつものように変換ミス、情けないものがある。
人前でとても歌えないし、カラオケという場面には近寄らないことにしている。やむなく取材に行くときは、「あくまでも写真を撮るだけ」強く断って、マイクがまわってくることの内容にしている。
しかし本当は人の唄っているのを聞くのは嫌いではない。ひょっとしたら好きなほうかもしれない。親しくしている友人が選曲する曲を見ると、その友人の経てきた人生が垣間見えるときがある。そんなときはじっと聴いている。囃し立てることはしないが、拍手もおおいにする。
逆にしっとりとした曲を選んで歌っている人の歌を聞くと、その人の人生をいろいろ想像したくなる。退職者会のカラオケだから、あまり新しい歌はかからない。忘れていたような曲がかかるととても懐かしくなることもある。
カラオケでは、というよりもどんな場面でも、ひたすらはしゃぐ人とはあまりお近づきにはならないようにしている。
人はカラオケに行って、親しくなる、というが、私はごくごく親しい人の誘いで、かつ私に歌うことを強要しないと確信できる敵以外、カラオケに行くことはない。
さらに「葦原の山姥」様に指摘をいただいた「寝首を描く」2か所を「寝首を掻く」にあらためた。いつものように変換ミス、情けないものがある。
人前でとても歌えないし、カラオケという場面には近寄らないことにしている。やむなく取材に行くときは、「あくまでも写真を撮るだけ」強く断って、マイクがまわってくることの内容にしている。
しかし本当は人の唄っているのを聞くのは嫌いではない。ひょっとしたら好きなほうかもしれない。親しくしている友人が選曲する曲を見ると、その友人の経てきた人生が垣間見えるときがある。そんなときはじっと聴いている。囃し立てることはしないが、拍手もおおいにする。
逆にしっとりとした曲を選んで歌っている人の歌を聞くと、その人の人生をいろいろ想像したくなる。退職者会のカラオケだから、あまり新しい歌はかからない。忘れていたような曲がかかるととても懐かしくなることもある。
カラオケでは、というよりもどんな場面でも、ひたすらはしゃぐ人とはあまりお近づきにはならないようにしている。
人はカラオケに行って、親しくなる、というが、私はごくごく親しい人の誘いで、かつ私に歌うことを強要しないと確信できる敵以外、カラオケに行くことはない。