高木純(あつし)さんの告別式までに仲間の思い出を集めてまとめ、急遽弔辞をしたためた。以下、高木純さんの記念にここに取り上げることにした。
弔辞 -1972年春、高木純さんの思い出-
高木純さん、あなたの早すぎる死を耳にした時、ほとんど言葉を失いました。
私たちは1970(昭和四五)年4月、東北大学理学部の学生として仙台市の川内キャンパスで出会いました。
1970年、当時の東北大学は入学式すら行われず、理学部300名の交流は学生が自主的に始めました。理学部の学生はいつの間にか、食堂の入口近くの一角を溜まり場としましたが、高木さんも必ず毎日顔を出す常連でした。クラス討論や学生大会が頻繁に行われる中で、下宿先やアパートで幾度も徹夜で、生き方や社会との向き合い方などを熱く語り合ったことを覚えています。
当時の東北大学の学生から見ると東京出身であか抜けて、好奇心旺盛な高木さんの周りには友人がたくさん集まりました。高木さんは常に笑顔を絶やさず、そして一番の常識家でもありました。議論が昂じてくるとちょっと伏し目勝ちに、恥ずかしそうな仕草で、「まあまあ」とにこやかに私たちの肩をたたきながら、穏やかに話をまとめてしまう特技もありました。また人を裏切ることなど考えられない温厚篤実な方でした。
高木君を語るときに忘れられないのは、サイモン&ガーファンクルの大のファンであったこと、そしてアシモフの「銀河帝国の興亡」というSFをこよなく愛し、活動実態はなかったものの「漫画研究会」を創設するなど、仲間内で思い出として語られています。仲間で企画した芋煮会・ハイキングなどではいつもその中心にいました。
学費闘争がこじれ、力づくで後期試験が強行され、仲間が試験をボイコットして7割の学生が留年するという事態が起きた時も、隊列の中でスクラムを共に組みました。その時に見聞きした多くのことを語り部のように語り継いでいた姿も忘れられません。一方で大学院の試験を一回でクリアするなどの努力家でもありました。
2013年8月末に、当時の学費闘争で留年した理学部の仲間が集まり、仙台で「72年春・川内を語る東北大45Sの会」を開いた時、体調はあまりよくないようでしたが、事前の準備段階から率先して参加してくださいました。
「会」の感想では「皆様の話し方や雰囲気が少しも変わっていないのに驚かされました。四〇年のギャップは大きいと思いますが、もともと世界観や政治観は一人一人異なっていたような気がします。それでは何が一緒だったのか、社会や人生に対する向き合い方、社会に対する個人の関わり方が似ていたのではないでしょうか。そこは今も大事にしています」と書いてくれました。
出会ってから47年、仙台で皆が再会してから4年、ほとんどの仲間が現役を退いたのを機に、「近いうちにまた仙台で会いたい」という声を寄せてくれました。高木さんの存命中にその約束が果たせなかったのが、残念でなりません。高木さんと一緒に悩んだ5年という歳月は短いとはいえ、人生の大切な時間でした。高木さんの思い出はいつまでも胸に大切にしまっておきます。
高木純さん! あのすばらしい5年間を本当にありがとう。
最後にご遺族の皆さまのご健勝を心から願いながら、お別れのことばといたします。
2017年10月 友人の一人として Fs
弔辞 -1972年春、高木純さんの思い出-
高木純さん、あなたの早すぎる死を耳にした時、ほとんど言葉を失いました。
私たちは1970(昭和四五)年4月、東北大学理学部の学生として仙台市の川内キャンパスで出会いました。
1970年、当時の東北大学は入学式すら行われず、理学部300名の交流は学生が自主的に始めました。理学部の学生はいつの間にか、食堂の入口近くの一角を溜まり場としましたが、高木さんも必ず毎日顔を出す常連でした。クラス討論や学生大会が頻繁に行われる中で、下宿先やアパートで幾度も徹夜で、生き方や社会との向き合い方などを熱く語り合ったことを覚えています。
当時の東北大学の学生から見ると東京出身であか抜けて、好奇心旺盛な高木さんの周りには友人がたくさん集まりました。高木さんは常に笑顔を絶やさず、そして一番の常識家でもありました。議論が昂じてくるとちょっと伏し目勝ちに、恥ずかしそうな仕草で、「まあまあ」とにこやかに私たちの肩をたたきながら、穏やかに話をまとめてしまう特技もありました。また人を裏切ることなど考えられない温厚篤実な方でした。
高木君を語るときに忘れられないのは、サイモン&ガーファンクルの大のファンであったこと、そしてアシモフの「銀河帝国の興亡」というSFをこよなく愛し、活動実態はなかったものの「漫画研究会」を創設するなど、仲間内で思い出として語られています。仲間で企画した芋煮会・ハイキングなどではいつもその中心にいました。
学費闘争がこじれ、力づくで後期試験が強行され、仲間が試験をボイコットして7割の学生が留年するという事態が起きた時も、隊列の中でスクラムを共に組みました。その時に見聞きした多くのことを語り部のように語り継いでいた姿も忘れられません。一方で大学院の試験を一回でクリアするなどの努力家でもありました。
2013年8月末に、当時の学費闘争で留年した理学部の仲間が集まり、仙台で「72年春・川内を語る東北大45Sの会」を開いた時、体調はあまりよくないようでしたが、事前の準備段階から率先して参加してくださいました。
「会」の感想では「皆様の話し方や雰囲気が少しも変わっていないのに驚かされました。四〇年のギャップは大きいと思いますが、もともと世界観や政治観は一人一人異なっていたような気がします。それでは何が一緒だったのか、社会や人生に対する向き合い方、社会に対する個人の関わり方が似ていたのではないでしょうか。そこは今も大事にしています」と書いてくれました。
出会ってから47年、仙台で皆が再会してから4年、ほとんどの仲間が現役を退いたのを機に、「近いうちにまた仙台で会いたい」という声を寄せてくれました。高木さんの存命中にその約束が果たせなかったのが、残念でなりません。高木さんと一緒に悩んだ5年という歳月は短いとはいえ、人生の大切な時間でした。高木さんの思い出はいつまでも胸に大切にしまっておきます。
高木純さん! あのすばらしい5年間を本当にありがとう。
最後にご遺族の皆さまのご健勝を心から願いながら、お別れのことばといたします。
2017年10月 友人の一人として Fs